第二講話

神のことを学ぶ人の心構え

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この講話において、神を知るのを妨げる人間の態度と、神を知るために必要な心構えについて考えてみたいと思います。

傲慢の問題と謙遜の必要性

聖パウロは、優れた宣教師であり、非常に多くの共同体を創立し、後ほど新約聖書の大事な一部となった多くの手紙を書いた人です。聖パウロは、ローマ人の信徒への手紙の中で(ロマ 1:18-23)、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」という事実を宣べてから、神を知らない人について、厳しい言葉を語ります。それは、神を知らない人たちに「弁解の余地がない」という言葉です。要するに、誰かが神を知らないならば、それは、この人自身のせいであるということです。

後で、聖パウロ神を知らない理由について語っていますが、それを纏めると、人間が神を知らない一番大な理由とは、傲慢であるということが言えます。

傲慢な人は、自分がよりも賢いですから、誰にも聞く人用がないと思っていますし、もうすでに十分な知識をもっているから、これ以上学ぶ必要がないと思っています。また、自分に、十分な力もあるから、何の助けも要らないと思い込んでいます。

もちろん、そのような態度をとっている人は、どんな人に会っても、どんな経験をしても、何も学ばないし、自分自身の古い確信を固めるだけです。また、このような人は、すべての助けを拒否していますので、誰もこの人を助けることができないということもあります。

常に新しいものを学び、人間として成長するために、謙遜にならなければなりません。謙遜な人は、自分が何もできないとか、自分が何も知らないと思っている人ではなく、自分の現実のありのままを把握して、自分に出来ることと出来ないことをはっきりと区別し、自分が知っていることがあっても、知らないことが沢山あるという事実を分かっている人なのです。そのために、謙遜な人は、常に開かれた心をもって、新しい経験から学んでいて、自分の考え方や生き方を改善したりして、人間として成長していきます。

謙遜な人になるために、人が傲慢になる理由について考える必要があると思います。一つの理由として考えられるのは、変化に対する恐れです。というのは、基本的に人間は、安定を非常に高く評価しています。そして、人間に相応しい幸福が何かを理解していないと、安定が最高の幸福の状態だと自然に考えています。そして、自分の安定を保つように全力を尽くして努めています。

考えてみれば、新しいことを学ぶことによって、今までの人生の哲学や世界観などは、揺れる可能性がありますので、それによって安定が崩される恐れがあります。さらに、今までの考え方や生き方が間違っている、または、それよりも良いものがあると認めて、それを変えようとするならば、人生がますます不安定になるし、この人の心がいろいろな不安、心配や恐れで満たされ、自分が、前よりも不幸になっているように感じることもあるかもしれません。変化に対する恐れは、この変化に伴う苦しみに対する恐れなのです。

人間が傲慢になることによって、つまり、自分の人生において、何も変える必要がないと決めつけて、心を現実に閉じてしまうことによって、変化に伴う苦しみから自分を守るつもりです。けれども、実際に、この人は人間としての自分の成長を妨げると同時に、人間に相応しい幸福の状態にたどり着くことを不可能にするわけです。

神を知るためだけではなく、人間として成長するために、謙遜になり、開かれた心をもつ必要性があります。開かれた心をもつとは、自分自身の確信や考え方や生き方が間違っている、それとも、充分ではないと判断したら、それを変える覚悟をもつことなのです。

創造主である神について学ぶことの重要性

常に開かれた心をもって、新しいものを学ぶことが大切であると認めても、神について学ぶことは必要がないと思う人が大勢いるようです。この人たちは、一般的な勉強は、具体的で、いろいろな利益、例えばより良い仕事やより高い給料という利益もたらしますので、このような勉強に意味があるが、神についての話は抽象的なもので、自分の実際の人生と何の関係もない、また、神について学ぶことは、何の具体的な利益をもたらさないし、何も役に立たないから、そのような学びに意味がないというふうに考えているようです。

けれども、この世界の構造などをよく分かっても、良い収入のもとになる仕事をしていても、世界の存在の意義、特に、自分の人生の意義や正しい生き方を知らなければ、本当に人間らしく、幸せに生きることができるのでしょうか。実際に、人の最も大きな苦しみとは、病気や傷のような体の苦しみではなく、自分の人生、自分の仕事、人間関係、自分の苦しみなどに意義を見出せないという苦しみなのです。

万物の創造主である神のことを学ぶのは、人生のマニュアルを勉強するようなことです。この学びによって人間が自分自身の存在の意義とその目的を知ること、また、正しい生き方、つまり、自分と他の人を生かす生き方を知ることが出来ます。従って、いろいろな苦しみをもたらす過ちを避けることが出来るだけではなく、真の幸福に繋がる有意義な人生を送ることが可能になります。その意味で、具体的な利益をもたらす学びは大切であっても、一番大切なのは、私たちの創造主である神について学ぶことなのです。

神について語る言葉の限界の問題。

神について学ぶことの重要性を認めて、実際に勉強を始めると、また、いろいろな問題が待っています。その内の一つは、神について語る言葉の限界です。

神は、人間が体験できる現実を超える存在ですので、人間の体験、人間の考えや感情を表現するために、つまり、この世のことについて語るために造れた言語をもって、神について語ることができないと思っている人がいるようです。けれども、キリスト者は、神について語る言葉の限界を意識しながら、神について語ることが可能であるという確信をもっています。

私たちは、人間の言葉を使って神について語ることが出来るのは、神によって造られた私たちの世界は、創造主である神と何らかの類似をもっていて、神の無限の完成さ、無限の美しさなどをある程度まで反映していると信じているからです。実は、被造物に基づいて神について語るのは、唯一の方法ですが、使っている言葉は、神の現実そのままを表現するのではなく、ただ、被造物と創造主の間にある類似を表しているだけです。けれども、何らかの類似があっても、相違の方がはるかに大きなものであるということを意識する必要があります。

例えば、「神は光です」と言われているとき、太陽の光とか、ローソクの光や電球の光をイメージする人がいるかもしれませんが、実際に、霊的な存在である神は、そのような物質的なものと全く異なるのです。けれども、神と私たちが知っている光は全く違っていても、何の類似があるということです。

例えば、光は道を照らすことによって歩くことを可能にするように、神は、真理を教えることによって、私たちが歩むべき道を示してくださいます。不安や恐れをもたらす暗闇と違って、私たちに希望や慰めや安心感を与える光と同じように、神は、私たちを慰め、励まし、希望、安心を与える方です。光が輝くところに暗闇が消えるように、神はおられるところに罪と悪が消えます。植物は生きるために光を必要としているように、私たちは生きるために、命の源である神を必要としています。

ですから、「神は光です」と言っても、実際に言っているのは、「神の一つの側面を光にたとえることができる」ということです。この表現は、神のことを描く、神のことを表現するということではなく、神の現実を指しているだけで、ある意味で道しるのようなものです。道しるべは、目的地に導く道を指しているように、神について語る言葉は、人間が神について考える方向を示しています。目的地にたどり着くために、道しるべを後ろにして、道しるべがさしている方向に歩まなければならないように、神のことをますます深く理解するために、神について語る言葉が指している方向に向かって、霊的な旅を続けなければなりません。

神について語られる言葉を文字通り理解する、その表面に留まるならば、この言葉は、道しるべから壁に代わってしまい、神のもとに導くかわりに、神に近づくのを妨げるものになってしまう恐れがあります。結果的に、聞いた言葉によって生きておられる神を知るようになるのではなく、命のない偶像を造ってしまう恐れがあるのです。

神についての学び限界とその目的

神についての学びに、大きな限界があることとその学びの真の目的を意識する必要があります。

考えてみれば、この世界の中のものについて学び、それを深く理解し、徹底的に知るようになると、そのものは、ある意味で、自分のものになります。けれども、神は、この世なものと違って、神秘的な存在で、無限の存在ですので、 私たちは一生涯かけて神について学んでも、神が自分のものになったと言えるほど、把握することができません。神についての私たちの思想やイメージは、いくら素晴らしくても、神の現実を表すのではなく、この現実の陰にすぎないものです。

幸いなことに、神のことを学ぶ目標は、神を完全に理解し、完全に認識することではなく、神を愛することです。確かに、神を愛するようになるために、神のことをある程度まで知る必要はありますが、完全に理解する必要はないのです。

いつか、これについて、もっと詳しく話しますが、次の講話で、神のことを完全に現してくださったイエス・キリストについて学ぶ問題とその解決についてお話します。

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