全世界に神のいつくしみを

ルドミワ・グリギエル著(B.ノヴァク翻訳)

              全世界に神のいつくしみを

                  聖シスター・ファウスティナ

序文

聖ファウスティナは、ポーランドにも、全世界にもよく知られています。シスターは、何よりもいつくしみ深いイエズスの御絵と神のいつくしみへの祈りの花束と関連されていますが、それらは神のいつくしみの礼拝の重要なところであっても、シスター・ファウスティナが伝えたメッセージの一部に過ぎないものなのです。同じように重要な使命の他の部分、特にこの偉大な神秘家の霊性がその二つの陰に覆われていたり、またはまったく忘れられていることもあります。 本書は、聖ファウスティナの使命と神秘的な体験において表現された霊的な生活の中心となる特徴を紹介する試みであります。この素朴な修道女の使命は、生き生きとした活動のようなものではありません。その使命の本質は、活動にあるのではなく、示現で「見た」ことや神秘的な体験において「知った」ことを伝えるところにあります。 新しいポーランドの聖人の豊かさは、霊的次元のものなのです。外的生活には、これといった不思議な出来事、興味深い旅、出会いなどあまりありません。シスター・ファウスティナの伝記は、内的次元の生活、つまりファウスティナの神との生活なしには、全く理解ができません。この霊的生活は、当時の人々にはほとんど知られていなかったし、今日でも、あまり知られていないか、「不思議な」預言的なビジョンになってしまっています。ファウスティナの霊的な生活を知るための資料は、彼女自身の「書物」なのです。それは、手紙(64通が残っていますが、大部分は、公式書状です)、聖体拝領前の黙想の短いまとめ、そして最も重要な資料として、「日記」があります。この日記は、シスターがヴィルノにいた時の聴罪司祭で、霊的な指導者であったソポチコ神父の命令によって書き残されたものです。時間が足りなかったために、または他の修道女の興味を起こすかもしれないという畏れのために、ソポチコ神父はシスター・コヴァルスカの話を十分に聞くことが出来きませんでした。ですからこの話しを暇な時に読むために、すべてを書くように命じたわけです。確かに、シスターがヴィルノにいた時(一九三三年~一九三六年)に書いたものだけを詳しく読んでいましたが、後でも書き続けるように命じて、部分的にはこれも読んでいました。ファウスティナが死ぬ時まで、この務めを思い起こさせたり、具体的な忠告を与えたりしました。一九三七年二月一四日の手紙の中には、こう書きました。「シスターから出て来ないものを特に詳しく書かなければなりません。前にも何回も頼んだように、そのようなこと、特にそんな言葉に下線をひいてください。シスターが自ら付け加えるものは、それほど重要なものではありません。」このように、聴罪司祭の智恵とシスターの従順によって、神秘主義文学の特殊な作品が生まれました。作者の言葉によればこの書物の中心的な内容は、「特別な訪れの時」の彼女の霊魂の神との「出会い」(日記 6)の記述です。 日記の作者は、村の学校に二年間冬の間にしか通っていませんでした。そのために、日記の執筆にはたいへんな苦労をし、単語の綴りをまちがいながら書いていました。その上に、書くことが出来たのは、僅かな時間で、しかも他の修道女に気づかれないようにそれを秘密にしていました。途中断ち切られている文書や、インキのしみは、突然にノートが閉じられたことを物語っています。「我がイエズスよ、あなたがご覧の通り、わたしが書くことが出来ないだけではなく、いいペンも持っていません。そして、たまにどういうふうに書けばいいのか全然わからない時があって、文字を一個ずつ並べて文書を作ります。でも、それだけではなく、まだもう一つの問題があります。というのは、姉妹たちに気づかれないように書くことを秘密にしていて・・・・・・急にノートを閉じたりするから、インキのしみがついています」(839)。ソポチコ神父の話しによって知られていることですが、彼の一九三四年の聖地への巡礼の数週間に、ファウスティナは誘惑に陥って日記帳を燃やしたが、ソポチコ神父が償いとしてすべてを書き直すように命じました。一九三四年七月二八日にこのことを再びはじめましたが、そのときの体験の方が強かったので、燃やされたノートに書き記された過去の出来事を書き直しながら新しい体験を書き記していたので、両方とも混ざっています。進行していた結核は、この極度の努力にとって望ましいものではありませんでした。そして一九三八年の六月の終わり(つまり死の六ヵ月近く前)にシスターは、病気が重くなって書くことが出来なくなりました。そのようなわけで日記は、事実や体験の順序正しい記録ではありませんし、繰り返しや理解しがたいところもあります。しかし、内容は豊かなものであり、また日記に使われていることばも、素朴でところどころ田舎なまりがありながらも、特殊な叙情性があり、的を得た表現を使った美しい散文で、この日記を読む者を驚かせます。もっとも捕らえ難い霊的な体験の詳しくて現実的な描写も人目を惹きます。シスター・ファウスティナは自発的に、いわば「生で」、描くことの出来ない神との直接的もっとも密接な交わりの体験を伝えます。そのために突然な霊的高場は、落ち着いて整えられ話しを不可能なものにしたわけです。たまに、直接に神に向かって、彼女を燃やす愛の火から出る火花のような言葉で文書を断ち切ったりします。(例えば、495)正しいけれど、少し無理に詩として書かれた日記の部分には、そのような特徴も見られません。ファウスティナの苦労の原因は、書くことそのものだけではなく、示現を正しく描けないという苦しさなのです。「わたしのビジョンは、純粋に内面的なものです、本当にそれをよく理解できるのですが、それを言葉ではよく表現出来ません」(883)と謙遜に書き記しています。 ファウスティナが日記を書いていたのは、聴罪司祭、またはキリスト自身への従順のためです。キリストは、聴罪司祭の命令を何回も確認しましたし、あるビジョンの中で、彼女はノートを調べている主イエズスを見ました。暫くしてから、「このノートには、人々に関するわたしの善についてまだ全部が書かれていない。何も抜かさないでほしい」とイエズスに言われました(459)。日記を書くことは、若い修道女の使命の一部であり、いつくしみの秘書として、彼女の任務となっていました。シスターの死の数ヵ月前にも、キリストは、彼女にこう言いました。「我が娘よ、すべての自由な時をわたしの善といつくしみについて書くために利用するように要求する」(1576)。ファウスティナは、この要求の難しさを分っていました。それは、自分の無教養のためだけではなく、日記の「テーマ」の種類のためなのです。自分の記述は、霊魂で理解していたものの「ぼやけた陰」(758)に過ぎないと知りながら、神との一致とう伝えられない体験を従順に伝えようとし、神のいつくしみの深淵という想像も出来ないものを記述しようとしています。日記を書くわけとそのテーマは、より描きやすい外面的な出来事ではなく、神秘的な体験において知った神のいつくしみの働きなのです。「特に、主がわたしに与える恵みについて書きたいのです。それは、私のためではなく、多くの霊魂のために与えられた恵みだからです」(710)。実は、一回「神に急がされた」時に、「彼ら(霊魂)の益のために書きなさい」とキリストが言いました(895)。神の教えを書き記すことは、使命の一部であって、この使命を忠実に果たして、報いとして与えられたのは、主御自身の承認でした。人生の終わりに、一九三八年の聖土曜日に、ファウスティナは、日記の全ての読者のために重要な言葉を書きました。「(主は)わたしに内面的な光を与えて下さいました。そこで、わたしの言葉は一つも入っていないこと、いろいろな困難や反逆があったにもかかわらず、いつも、いつも理解することのできた主のみ旨を完全に行なったことを知りました」(1667)。したがって、日記は、神のインスピレーション、または神のみ旨に対する従順の実り、人間の完徳への熱望と神の恵みとの協力が産み出した実りなのです。しかし、忘れてはいけないのは、宗教文学の特殊なこの作品の内容は、言葉というよりも沈黙の次元に属する霊的な空間で行なわれている「出来事」なのです。偉大な神秘家が、多くの体験を書き記しましたが、言葉によって表現出来ないために、どれだけ多くの場合に沈黙を守らなければならなかったことでしょう。偶然かのように、自分でそれを認めます。「天と地の間にいるときに、黙っています。話したところで、誰がわたしの話しを分るでしょうか。今わたしが黙っている多くのことを永遠が現わすでしょう」(1119)。 この固有な自叙伝は、その由来やその素朴性のために、リジュの聖テレースの霊魂の日記に少し似ています。しかし、ポーランドの修道女には教養がなかったし、又、彼女の修道会の性格上、下位のシスターにはあまり本を読むことが許されていなかったのですから、それほど似たものとは言えないかも知れません。 日記の内容とその作成の事実自体が、シスターの聖性の、不思議でありながらも、「物的」証明になっていると思います。なぜなら、神のインスピレーションと神の支えがなければ、日記は制作されなかったに違いないからです。

第一部 生涯

一 中断された踊り

シスター・ファウスティナが聖にあげられたのは、彼女が修道会に入ってから起こった偉大なことの結果なのですが、まずその時までのシスターの道、つまり自分の家庭から入会までの道のりを見てみたいと思います。しかし、最初から強調しなければならないのは、シスターの生活について詳しいことはあまり知られていないということです。残っているのは、シスターの子供の時についての数少ない資料と、後の生活に関して修道会の記録書に記されている入会や誓願や移動または、重い病気と死についての短いメモだけです。列福調査で得た資料の中には、特に修道院で世話になっていた生徒たちや修道会の姉妹たちの好感を得たと同時に人をやきもきさせたり(ヒステリー気質の人と言われたこともあった)驚かせたりしたというこの目立たないシスターについての人物評価による性格描写が以上のデータに加わります。実は、最も親しい人々さえ、彼女をあまり知らなかったし、理解もしていませんでした。マリアンナ・コヴァルスカが娘について尋ねられた時、こう言いました。「打ち解けない人で、すべてを自分の心に隠していました。」 ヘレナ・コヴァルスカは、ウジの近辺にあるグウォゴヴィエツという小さな村で、一九〇五年八月二五日に生まれました。この村には、学校も教会もありませんでした。狭い土地の持ち主の十人の子供の三番目の子供でした。農業以外に、父親は大工の仕事をしていたが、娘たちは、「日曜日の」ドレスを着る順番が回った時にしか教会へ行くことが出来なかったほど貧しい家族でした。ヘレナが日曜日に家に残った時、果樹園の角に隠れて、祈りの本で祈りました。学校に通う時期はとても短かったが、その時の思い出の中には、ひどく貧しい服を着ているという理由で、学校の子供たちによく笑われたという苦しい経験もありました。しかし、この貧しい家では皆良く働くかたわら、信仰の本(残念ながらこの本のタイトルが知られていない)を読むための時間や祈るための時間をとっていました。この家庭の雰囲気を知るのには、一九三五年の二月の最後の訪問の折りに、シスターが書いた感想が役に立つでしょう。「父の祈る姿を見て、とても恥ずかしくなりました。なぜなら、こんなに長い間修道生活しても私は、父のようにあれほどの誠意をもって、熱心に祈ることは出来ないと思えるからです。ですから、そんな両親を下さった神様に絶えず感謝いたします」(398)。 勤勉で性格の良いヘレナは、当時のポーランドの村の少女たちの運命を共有していました。十四才の時からお手伝いさんとして働き、自分の家族を支えていました。しかし、そんな生活で満足出来ず、絶えず自分の使命を探していました。後に書いたように、既に七才の時に「神様の声、つまりより完全な生活への招き」を聞きました。この声を忘れることはなかったけれど、この呼びかけに適う具体的な決心をするまでには至らず、「普通」の生活を続けていました。十八才になって、この「招き」への答えは修道会に入るという決心で具体化されました。けれども、両親の強い反対のために、この決心は実行されなかたのです。「恵みの絶え間ない呼び掛け」は、ウジの公園で行なわれたダンスパーティの最中に非常に力強く響きます。その時、受難のイエズスがヘレナに現われ「いつまであなたのために苦しまなければならないのか、いつまでわたしを惑わすつもりか」(9)と言われて、遊びに夢中になっていた少女は音楽が聞こえなくなり、回りの人々が見えなくなります。ただキリストの姿だけが見え、キリストの声だけが聞こえます。キリストは、親しい人を驚かせるようなこと、ヘレナにさえも最後まで理解の出来ないこれからのやるべきことを指示されます。理解出来なくても、ヘレナはすべてをイエズスにゆだね、イエズスの指示を忠実に実行します。それ以来死に至るまでこういうふうに、ファウスティナの重要な決意だけではなく、昼の訪問や祭壇に花を飾るというごくさ細な行動でさえ内面的な声やビジョンによって導きかれます。 一九二四年七月この忘れられない昼に、ヘレナは、遊んでいる友人を後に残して、カテドラルへ行きます。そこでは、ご聖体の前にひれ伏して、神の導きを求めます。彼女の祈りに答えて神は、そのみ旨に適う道を示して下さいます。言われた言葉に忠実に従ってヘレナは(生まれて初めて)ヴァルシャヴァへ行き、ダンスを中断されたキリストの意志を実現出来る方法を探します。自分が修道院に入らなければならないということをはっきり分っているが、どこの修道院か全然分りません。いろいろな修道院を訪ねるが、どこでも断られます。やっと憐れみの聖母修道女会の修道院の門をたたき、入会を願います。(後に総長になって、暖かくファウスティナを世話していた)ミハエラ・モラチェフスカ院長は、普通の話しに止まらず、来院したヘレナを、この家の主人が彼女を受入れるかどうかと聞くように聖堂へ行かせました。院長の命令よりも志願者の反応が興味深いものです。数年立ってから話したように、ためらうことなくヘレナは聖堂へ行き、「非常に喜んで」質問を繰り返して、すぐに「受入れる、あなたは私の心に留る」(14)という返事が聞こえます。入会するまでに、ヘレナは、入会のために必要な小さい財産を造るためにまだ一年の間にお手伝いさんとして働かなければなりませんでした。 この時、修道会に入る前に、一九二五年の六月に、「夕の祈りの時、心から流れる単純な言葉で」神に貞潔の誓願を立てました。一年中お手伝いさんのすべての務めを一生懸命果たし、楽しい歌を歌ったり、子供と遊んだりしましたが、内面的にもう既に修道女のように生きていました。「私は、心の中で、いつもイエズスと交わる小さな部屋を造りました」(16)。

二 修道院

待ち望んでいた日は、天使の聖母の祝日の前日、一九二五年八月一日にやって来ました。ヘレナ・コヴァルスカは、ジトニャ道にある修道院の門をくぐって、自ら書いたように「楽園の生活に入ったような気がしました」(17)。けれども、この喜びと感謝の気持ちはすぐに困惑と悲しみによって抑えられました。「修道院の」生活に合わせるためにとても苦労しているとヘレナが最後の雇い主の訪問の時に告白しました。いつも歌いながら働き、よく大きな声で笑ったりしたこの少女は、落ち着いた歩き方や、会則で決められた以外の祈りをしたい時に、上長に許可を願うといった事になかなか慣れることが出来ませんでした。自分の召命に対して疑問はなかったが、この修道院では、祈る時間があまりに短かいという理由で、自分の召命に相応しい修道院ではないと少しずつ強う感じるようになっていきました。確かに若いお手伝いさんが入会した修道会は、観想修道会ではなかったし、また教養が足りないためにヘレナは、一日中主に肉体労働する修道女のグループに入ることになりました。志願者の迷いと「もっと霊的な修練に力を入れる修道会」(18)を探さなければならないという思いは彼女の霊性の性格を表しています。自分が入会していた活動修道会を退会しなかったが、実際は、いつも観想修道女だったに違いありません。このことを裏付ける色々な証明があります。例えば、ファウスティナはあまり祈りすぎるという一緒に働いていた多くの修道女たちの文句や、ロザリオを手にしながらワギエフニキの修道院の庭で草取りしたと一人の生徒に伝えられたシスター・ファウスティナの姿なのです。 最初の悩みや苦しい内面的な戦いは、ファウスティナにこの修道会に残るように命じるイエズスのビジョンによって終わらせます。イエズスは命令するだけではなく、このわけも説明します。「他の所ではなく、ここにあなたを呼び、ここであなたのために多くの恵みを用意している」(19)。この最終的な召命の保証には、「多くの恵み」の約束が伴います。この機会には、修道会の共同創立者であったテレザ・Rondeau の言葉を引用せずには済まないでしょう。「いつくしみは私たちの修道会の本質なのです。いつくしみなしには、この修道会は、別のものとなります。」若い志願者はおそらくこの言葉を知らなかったが、自分の耳にしたイエズスの言葉で充分でした。時と共に観想への望みと活動修道会の会則との間のバランスが取れるようになりました。後に、一日中「完全に神に沈み」ながら、働いたり、他人と話ししたりすることが出来るようになったほどに、観想生活に成長し、恵みによる強い支えが与えられます。シスター・ファウスティナも、偉大な恵みには偉大な苦しみが伴うとすぐに分ったわけではありません。一九二六年四月三十日の修練着衣の時に初めて神はこのことを感じさせました。「この苦しみの一分でした」(22)、しかし修練女が気絶したほど、辛い体験でした。この気絶の本当の理由をシスター・ファウスティナが亡くなって初めて知ったその時の担当修道女は、彼女は気絶したのは世間をあまりに惜しんでいるからだと判断していました。この小さい出来事について書くのは、そのような「誤解」は、これからずっとファウスティナに伴い、場合によってもっとしつこい形で表現されます。しかし、シスター・ファウスティナの修道生活においては、色々な誤解や共同生活の辛さだけではなく、素晴らしい指導者との出会いや深い友情で結ばれた良い姉妹との出会いもありました。神の恵みの他に、彼女たちの智恵や優しい世話があったからこそ、色々な困難、特に一九二七年の春、第一年目の修練期の終わりから一九二八年の末まで続いた最初の霊的暗夜を乗り越えることができたでした。 この時、クラクフの修練院でヘレナは志願期を終わり、一九二六年四月三十日に修道服とマリア・ファウスティナという修道名が与えられ、同じ所で一九二八年四月三十日に初誓願を立てます。そのころシスターは主に、台所や庭で働いていますが、霊的な苦しみや初期の結核が彼女をずいぶん弱らせました。これが、毎日の困難や屈辱の原因となったわけですが、キリスト自身が彼女に助けの手を伸ばします。キリストの助けをよく描き、聖人の生涯を面白くするための造り話しとも思われるような一つの出来事があります。これは本人自身が、自分の偉大さを示すためではなく、ただその事実によって(霊的にだけではなく、実践にも良い結果をもたらした)喜びを分かち合うために単純に話したものです。それは、修練期中の出来事でした。台所で働いたファウスティナは意外な問題にぶつかりました。ジャガイモで一杯のなべがあまり重すぎて、シスターにはそれを持ち上げる力がありませんでした。それで最初は、ジャガイモがゆで上がる瞬間を抜け目なく避けるようにしていましたが、後で神に告白し、神から助けを約束してもらいました。翌日、「主の言葉への信頼に溢れて」重いなべをとると、簡単に水を出すことができました。「ところが、ふたを取ったら・・・・・・なべの中にはジャガイモではなく、ほとんど描くことも出来ないほどのきれいな赤いバラの束が入っていました」(65)。 聖ファウスティナは、この出来事を自分が神に特別扱いをされていることの不思議な証明としてではなく、神の助けの目に見えるしるしあるいは、神と共に行なう辛い仕事の受諾のしるしとして理解し、それを観想と活動の結合の可能性についての教えとして受入れます。シスター・ファウスティナは、この教えをよく理解し、彼女の内的分裂やこれに伴う苦労にほとんど誰も気付かないほど、生活の上でこれを完全に実行しました。健康はあまり優れなかったにもかかわらず、彼女はどんな修道女よりも、ひんぱんに短期間であっても、働き手の足りない修道院に、あるいは病人の出た修道院の台所やベーカリや庭で病気の姉妹にかわって働くために移動させられました。彼女はこうした事を何の文句なしに従順に受入れ、列車の中でも観想の祈りをしながら出掛けていました。どこにいっても、彼女には、新しい姉妹と友情関係ができ、生徒たちの心をとらえたりしました。しかし何よりも重要なのは、彼女がどこにあってもキリストと交わる空間を見つけ出すことが出来たということです。他の支部にあんまり移りたくなかった修道女に彼女はこう言いました。「あそこにもキリストがおられますから、行けばいいですよ。」と。

三 御絵

初誓願後にヘレナ・コヴァルスカは、クラクフを出ますが、五年後に、スタニスワフ・ロスポンド司教の前で(一九三三年五月一日に)終生誓願を立てるために、再びクラクフに戻ります。 この五年の間に、修道会の各支部で働きながら、彼女は修道生活における最大の先生であったキリストのビジョンやその「対話」から生まれる増大していく喜びの中、またはそれとは対照的な苦しみや困難の中で、特に従順と謙遜に基づいて養成されていきます。一九三六年八月十三日にこう告白しています。「キリストが私の先生です。彼に全てについて尋ね、全てを話します。・・・・・・修練期を終わってから、私の先生イエズスと共に聖室に閉じこもりました」(704)と。キリストの許で行なわれたこのファウスティナの修練期についてはほとんど誰も知ることがありませんでした。確かに、色々な人(聴罪司祭、上長)にこの事について告白しましたが、皆、疑ったり、待ってみようという態度を取ったりしていました。驚きのあまり、無力を感じた彼等は、シスターのことが何とか過ぎ去るものと思って、何も言わないようにしてみたり、あるいは無学の修道女と神との親しい関係についての報告を何とか確認しようとしたりしました。そうこうしているうちに、少しずつ、何でも知りたがる修道女たちがシスターのことに興味を持つようになってきました。彼女たちは、聖堂や自分の部屋にいるファウスティナをのぞき見したり、その格好や彼女たちを怠慢(と受け取る彼女の判断の確信)を嘲笑ったりしました。ファウスティナは「長い間悪魔に取りつかれた者のように思われていました。そのためにかわいそうなものとして扱われ、上長もわたしには特別な注意をしていました」という思い出を述べ、最後にこの体験の辛さを表して「回りの地平が暗くなってきます」(123)という短い言葉を付け加えます。シスターが与えられた色々な不思議な内的体験(日記によって部分的にしか知られえないこの体験については後で別の所でもっと詳しく語ります)は、ファウスティナ自身を驚かせるビジョンによって、全然予想ができない方法で外に表されました。一九三一年二月二二日プオツクにいた時、「白い長衣を着た主イエズスを見ました。一方の手は祝福するために挙げられ、もう一方は、長衣の胸のあたりに触れていました。そして、長衣の胸元の開いたところから、赤と青白の二本の大きいな光が流れていました」(47)。この示現は、ただ目で見るビジョンで終わらないのです。ファウスティナに現われたイエズスは、初めて彼女に「外面的な」行動を要求する言葉を述べます。「あなたが、見ている型に従って、『イエズスよ、あなたに信頼します』という言葉が刻み込まれている絵を描きなさい」(同上)。驚いたシスターは、これについて聴罪司祭に話します。そうしたらそれは、霊魂の中の絵のことだと司祭は満足できる、論理的な説明をします。しかし、イエズスはすぐそれに「反対」して、次のビジョンの時、いつくしみの祭日に関係のあるものとしてこの絵を描く命令を強く繰り返します。「この絵は、復活祭後の第一の日曜日に聖別されてほしい。この日曜日は、いつくしみの祭日とならなければならない」(49)と。こうしてイエズスは、いつくしみについて教え始め、大きな使命のためにファウスティナの養成を始めます。神の教えと与えられた使命に対するファウスティナの態度については、第二章において述べますが、 聖の伝記をかく際に、当時の人々にもよく知られていた使命の外面的な部分でありながら、神のいつくしみに対する公的かつ外的な礼拝方法を示しておきたいと思います。それは、御絵を崇敬するだけでなく、神のいつくしみに対して祈りの花束を唱えること、そして、神のいつくしみの祭日を祝い、いつくしみの時間に祈ることなのです。多くの人々によって認められている「信心」という呼び方を用いて、神のいつくしみの礼拝について少し説明しましょう。御絵自体は、信心の中心ではなく、神のいつくしみを思い起す外面的なしるしであり、崇敬の対象です。キリストの言葉によれば、この絵は、人々が「恵みをいただくためにいつくしみの泉へ近づく時手にすべき」(327)「器」なのです。そのためにこの絵の製作が必要です。御絵に関する諸出現は、いつくしみについての教えの要点を示すと同時に若い修道女にその使命に対する準備をさせます。ビジョンの後、ファウスティナにとって、キリストの命令を実現するのに協力してくれる人を探す長い時期が始まります。上長たちは、何とかしようとして、コックの修道女に絵の具と筆を与えました。彼女はそれを利用することができませんでした。仲のいいシスターたちにこの作業を頼みますが、皆、断わられてしまいます。とうとう、この絵のことはもうあきらめなければならないかのように見えました。上長だけでなく、ファウスティナさえそう考えたのです。しかしキリストは、そんな考え方を戒めます。「わたしは、この内面的なインスピレーションから逃げようとした時、裁きの日にわたしから大きな数の霊魂が要求されると神に言われました」(52)。この戒めによって、ファウスティナは大変苦しみ、疑いと畏れに陥り、ついにキリストがもう自分に現われないようにと願います。 霊的な困惑は、一九三二年の十一月にヴァルシャヴァの近くにあるヴァレンドゥフで行なわれた第三回目の誓願更新の前の黙想会まで続きました。この黙想の指導をしたのは、諸学問の専門家、「大いなる霊で満たされていた」イエズス会のエドムンド・エルテル神父でした。この司祭は、ファウスティナのビジョンが超自然的なものであることに少しも疑いを持たずに認めた初めての聴罪司祭でした。ですから、彼はファウスティナにとって、とても重要な人物となります。告解の時、「イエズスがシスターの先生です」と保証し、相応しい霊的な指導者を見つけなければ、与えられた恵みを無駄にしてしまう危険性について話しました。それから、上長や聴罪司祭に対する正しい行動についてとても重要な忠告を与えました。その中には、こんな忠告がありました。「イエズスが、何か外面的なことを要求した場合は、まず聴罪司祭に話し、それから、どんな苦労があっても、それを実行しなければならない」(174)。この時から、 聖ファウスティナは、もうイエズスの難しい「命令」を避けようとしませんでした。ヴァレンドゥフで行なわれた告解によって、シスターはなによりまず、霊的な指導者が与えられるようにと熱心に祈るようになりました。主イエズスは、祈りを聞き入れると約束をするだけではなく、ビジョンにおいて、その選ばれた司祭を「見せて」下さいました。クラクフで行なわれた終生誓願(一九三三年五月一日)後に、ヴィルノへ行かされたシスターは、そこの修道院の聴罪司祭を見たら、彼がこの司祭だとすぐに分かりました。ミハウ・ソポチコ神父でした。 ヴィルノでのソポチコ神父との出会いは、霊的な指導者の問題と絵を描く問題に解決をもたらしますと同時に、シスター・コヴァルスカの霊的生活において決定的にその使命遂行の期間をもたらしました。 既に述べたように、ファウスティナの日記はソポチコ神父のおかげで出来上がったのです。しかし、それだけではなく、神のいつくしみに対して神学的に裏付けられた正しい様式で礼拝が始められるようになり、いつくしみ深いイエズスの御絵が出来上がったのも、この司祭のお陰といえます。彼はファウスティナと共に御絵の作成について、その構図と、神学的な内容に関わるイエズスの望みが分ってからは、この絵を画家のエウゲニュシ・カジミロフスキに描いてもらいました。一九三四年の一月から六月まで、シスター・ファウスティナはこの画家に「協力」します。画家は、シスターの指示に従って、いわば(週に一回、彼のアトリエを訪ねた)シスターの指導のもとで、多くの人々に知られているいつくしみ深いイエズスの絵を描きました。カジミロフスキ氏は確かに、天才的な画家ではありませんでしたが、委ねられた仕事は、簡単ではなく、又、やりがいのあるものでもありませんでした。絵が出来上がった時、この「肖像」のイエズスが、シスターの見たイエズスほど美しくなかった(313)為、シスターは、全く満足出来ず、悲しみのあまり、涙を流したほどでした。しかし、イエズスはシスターを慰め、いつくしみの信心について根本的なことを教えます。「この絵の偉大さは絵の具の色や筆の美しさにあるのではなく、私の恵みにあるのである」(同上) と。それ以来、ファウスティナは、ヴィルノで描かれた絵や後に印刷された御絵の「芸術性」を気にしなくなりました。彼女の関心は描かれた絵そのものにではなく、世界にそのいつくしみを思い起させる使命を下さったお方そのものに向けられ、「まことに敬虔な人」らしい態度を示しました。十字架の聖ヨハネはこう書いています。こうした人の「心は用うる画像に捉えられるようなことはない。・・・・・・それは心の中に生ける画像を探し求めているからで、その生ける画像とは十字架上のキリストであり、キリストのためにすべてを奪われ、すべてのものにおいて欠けることをかえってよろこぶからである」と。 聖ファウスティナが、何回も書き記しているように、「この絵のような姿で」キリストは、何回も彼女に現われました。ヴィルノの修道院の庭で、生徒たちと一緒に夕食に行く時に、この姿のイエズスを見たファウスティナは、その時のことを「イエズスの御心から放たれる二本の光が、わたしたちの聖堂と病室に注がれ、それから市全体に、そして全世界に広がりました」(87)と叙述し、一九三四年十月二六日という正確な日付をつけています。生徒の中の一人は、その光を見、とても感激しました。何の説明も受けなかったけれど、何年たってもこの瞬間の出来事について詳しく話しました。この御絵が、初めて多くの信者から崇敬を受けたのは、(一九三五年の)救済記念年のお祝いの終わり頃でした。その時この御絵は、三日間オストラブラマ教会に展示され、神のいつくしみについてソポチコ神父が説教をしました。これに関してシスター・コヴァルスカはこう書いています。「救いのわざと、キリストが求めるいつくしみのわざとは結ばれていることが今はっきり分ります」(89)。このお祝いが終わった後、「神のいつくしみの秘書」の聴罪司祭は、神のいつくしみに対する礼拝をもっと力強く広めるように努めました。キリスト教思想におけるいつくしみについて専門的な研究をしてから、説教をしたり、ラジオで講話をしたり、新聞に記事を出したりしました。年月がたつにつれて、シスター・ファウスティナによって伝えられた神のいつくしみの信心を広めるために彼は、ますます熱心にとり組みました。こうして二人は仕事を分担するようになっていきました。シスターは、内面的な生活に集中しながら、神秘的な体験によって得た「知識」を日記に記して伝えようとします。一方、彼女の霊的指導者は、神のいつくしみを人々に伝えるにあたって表現と、又、その広布について責任をとりました。

4 信心(礼拝)

いつくしみ深いイエズスの御絵を崇敬するのは、神のいつくしみを誉め讃える一つの方法なのです。ここで、礼拝のあらゆる様式が、正しく、実り豊かなものとなるための必須条件は、神への信頼であるということを強調しなければなりません。それから、神のいつくしみを誉め讃えるためには、外的な信心業よりも、むしろ行ないや言葉や祈りによるいつくしみの実行が大切です。信心に関してイエズスは示現をもって、復活祭後の第一の日曜日に祝うべき「いつくしみの祭日」について頻繁に語っています。いつくしみの祭日としてこの日が選ばれることにより、神のいつくしみと、その最高の表現である救済との密接な関係が強調されるわけです。従って、それは喜びに満ちたキリスト教の希望の祭日、復活された方と共にわたしたちも復活するという希望の祭日なのです。祭日のお祝いは、いつくしみに対するあらゆる礼拝方法(御絵の公的崇敬、祈りの花束を唱えること、イエズスの死の時間の崇敬、いつくしみについての説教)を含むと共に、この信心を通して人々を教会の秘跡(告解、聖体拝領)にあずからせます。祭日は、「神のいつくしみへの祈りの花束」から成り立つノヴェナ(聖金曜日から始まる九日間の祈り)によって先行されるべきです。「このノヴェナにおいてあらゆる恵みを人々に与える」とキリストは約束されたのです(796)。一九三五年の九月、神はファウスティナに、神の怒りをなだめる祈りと呼んで、この祈りの花束を教えて下さいました(476)。この祈りを唱える目的は、「私たちのため」にだけではなく、「全世界のため」にいつくしみを願うことです。ですからそれは、助けを必要としているすべての罪人に対する愛の行ないとなるわけです。シスター・ファウスティナが、「全人類が信頼を持って神のいつくしみに向かうこと」をどれ程切に願っていることかとイエズスに申し上げた時、イエズスはこうおっしゃいました。「この祈りの花束を唱えることによってあなたは人類を私に近づかせるのだ」(929)と。永遠の父である神にささげるこの祈りは、そのひとり子の十字架のいけにえと密接に結ばれています。私たちは、いつくしみをいただくために十字架に付けられたキリストにお願いするわけです。この願いが聞き入れられる為には、(この信心の他の様式と同じように)信頼、または(すべての祈りにおけると同じように)忍耐、そしてその願いが神のみ旨であるということが必要です。私たちのお願いが神のみ旨に適うならば、祈りの花束を忍耐強く唱えることによって霊的なもの(回心や救霊)でも、世俗に関わるもの(例えば、日干ばつやあらしの終止など)でも与えられるとイエズスはシスターに約束なさり、実際に幾度となくこの約束を実現して下さいました(1731)。それに応えてこの誠実な弟子は、又、こんな祈りもささげます。「イエズスよ、神のことや、より高い事柄を理解出来るような優れた理性を与えて下さい。・・・・・・あなたの特別な恵みによってわたしの知性を豊かな能力で満たして下さい。教会が与える恵みによってすでにその能力があることを知ってはいますが、主よ、わたしたちの願いに応えてあなたがくださる恵みには大きな宝があるにちがいありません。しかし、もし、わたしの願いが、あなたのみ心に適うものでないならば、このような望みを与えないでください」(1474)と。一九三七年にキリストは、祈りの花束から成り立つ、この簡単な形のノヴェナ以外に、自分の秘書と一緒に行なったノヴェナのテキストを彼女に教えました(1209-1229)。このノヴェナに伴う約束は、すべての人に対してではなく、シスター・ファウスティナに対して個人的になされたものなので、このノヴェナは新しい礼拝様式には入っていません。数ヵ月後に、このテキストを読んだソポチコ神父が、これを大変好み、祈りの花束と、(日記に書かれた祈りの断片から造った)連祷と一緒にこれを出版しました。司教の許可を得、一九三七年にクラクフで印刷されたこの小さな本は、シスターの示現に基づく最初の出版物でした。戦争の時に、いつくしみ深いイエズスの御絵と共に、多くのポーランド人の悲しい旅、シベリアから、アフリカを通ってアメリカに至る旅の道づれとなったこの本は、神のいつくしみの信心を全世界に広める上で効果的な役目を果たしました。 祈りの花束にはキリストの受難のアクセントが見られますが、イエズスは、この受難を中心とする別の様式を定めました。それは、「全世界のための偉大ないつくしみの時間」である午後三時に行なうべき祈りのことです。キリストは、ファウスティナに向かってこう呼びかけます。「三時に、特に罪人のために私のあわれみを願いなさい。そしてほんの短い間でもいい、私の受難、特に死ぬ時の私の孤独について黙想しなさい」(1320)と。後ほど、話しますように、キリストの「話し相手」は、この時間、単にキリストの受難、その孤独を黙想しただけではなく、実際救い主の苦しみ、またはその「孤独」にあずかっていたのでした。ここで注意してもらいたいのは、キリストの受難の黙想が、ただキリストの肉体的な苦しみの黙想だけでおわるのではなく、父である神に見捨てられているという苦しい体験や「うちのめされるような悲しみ」を含むあらゆる苦悩についての黙想とならなければならないということです。別の時にキリストは、誰にも出来るような方法を彼女に教えます。それによれば、黙想の代りに、十字架の道行や聖体訪問を行なうこと、あるいは三時にわたしたちがいるところで短い祈りを唱えるだけでも充分である(1572)ということです。つまり、この信心業は神秘的なものとなり得るけれど、誰でも、観想に全く向かないキリスト信者さえ、出来るものなのです。 ファウスティナの人生は短かったために、シスターは信心の広まりの初期しか見ることができませんでしたが、キリストに教えられた祈りをはじめは一人していた彼女も、人生の終わりには姉妹たちと共にすることが出来ました。ファウスティナはいつくしみの祭日が制定されるまで生きることはゆるされませんでしたが、この祭日が制定に努める司祭たちが神によって照されるように、又、「聖霊がこのことに関し教皇にインスピレーションを与える」ようにと祈りました(1041)。彼女は、この祭日が必ず生まれると安心し、確信を持っていました。この確信の源は、「神の光」でした。これについては、一九三七年の聖火曜日に起こった不思議なビジョンが証明するでしょう。「突然わたしは、ローマにいる自分自身を見ました。教皇様の聖堂にいると同時にわたしはわたしたちの聖堂にいました。教皇様と全教会がお祝いした祭日は、わたしたちの聖堂、特にわたしたちの修道会と結ばれていました。わたしは、ローマで行なわれたお祝いと、わたしたちの聖堂で行なわれたお祝いとに同時に参加しました。・・・・・・わたしたちの聖堂の大きな祭壇に顕示されたご聖体のイエズスを見かけました。・・・・・・群衆は、見渡せないほど大勢でした。・・・・・・同じお祝いは、ローマの美しい聖堂で行なわれ、教皇様は、すべての司祭と共にお祝いしました。突然、祭壇と教皇様の間に立った聖ペトロを見かけました。聖ペトロの話したことは聞こえませんでしたが、教皇様がその話しを聞き取っている事が分りました」(1044)。

5 聴罪司祭

ファウスティナは、良い聴罪司祭が与えられるようにと熱心に祈りました。慎重さに欠ける聴罪司祭や怖がる聴罪司祭から多くの苦しみを受けましたが、彼等の許可なしには、何もしないことにしていました。苦しい経験の数年後に、修道会の上長の本当の役割と一定の霊的指導司祭の重要性が分りました。死の二年前にこう書いています。「経験のある聖なる指導者が多かったなら、聖なる人々も今より随分多くいたことでしょう」(940)と。多くの神秘的な体験をするようになった初期の頃から、司祭の助けの必要性を非常に強く感じました。シスターの持つ素晴らしい直感、教会のセンス(センスス・エクレジエ)は、秘跡の管理者であり、教会の代表者である聴罪司祭の支えを求めるよう呼びかけています。「神御自身、わたしを安心させて下さいますが、それでもわたしはいつも教会の保証を求めていました」(112)。そんな助けを求めて祈ったシスターはそれを、キリストの忠実なしもべソポチコ神父において与えられました。彼は神のみ旨を理解し、それを行なうようシスターをたすけました(263)。優れた智恵と聖性に満ちたこの司祭は、最初は非常に注意しながら、考慮をもってシスターの話しを聞きました。ビジョンについては性急な判断をせず、シスターに謙遜を深める訓練をするように勧めました。シスターのことについて上長と相談したり、精神科医の診察まで頼みました。医者は何の異常も見つけず、シスターの言葉が真実性のあるものだと司祭が確信を持つようになって以来、以前にも増やして豊かにシスターに注がれる神の恵みに協力する二人の素晴らしい冒険が始まりました。 一九三六年の三月にファウスティナがヴィルノを去りましたが、別の所にいても、ソポチコ神父との接触を保ちます。クラクフで過ごした最後の二年の間は、イエズス会のユゼフ・アンドラシュ神父がシスターの告解を聞いていましたが、最後まで彼女の霊的な指導者だったのはソポチコ神父だったといえます。アンドラシュ神父も、「神の現存」に満ち溢れた修道女にとって大きな助けとなりました。彼は、度々シスターをヴィルノの聴罪司祭のところへ送りましたし、ソポチコ神父との相談なしには、何一つ重要な決断をしませんでした。二人の司祭が、どれ程神に近づいているかということを、ファウスティナは度々日記にかいています。彼等の調和のとれた協力や司牧奉仕の効果をもっともよく表すのは、ファウスティナがみたイエズスの元に見える二人のビジョンなのです。「二人は、手に鵞ぺンをしていました。この鵞ペンの先端からひらめきと稲妻の形をした火が出ていました。この火は、目的地を知らずに走ることに夢中だった大群衆に当たりました。誰かが、この光に打たれると、群衆に背を向けて、イエズスの方へ手を伸ばすのでした」(675)。彼女は、よい聴罪司祭を頂いたことを絶えず神に感謝しました。そして、すべての聴罪司祭のハンドブックにも利用出来る熟考文書をもって自分の経験を伝えます(37)。イエズスご自身を先生としていたこの修道女の聴罪司祭に対する絶対的従順は私たちを驚かせます。しかし、この先生こそが、そのような難しい従順を命じたのです。「従順な者となり、聴罪司祭の言葉に従いなさい。あなたを指導するために必要な光をわたしが彼等に与える」(1374)。つまり、キリストは、ゆるしの秘跡の管理者である司祭を同一視なさっているわけです。このことをイエズスは、次の言葉をもって確信させます。「司祭がわたしを代表する時、彼が働くのではなく、彼を通してわたしが働くのだ」(331)。「あなたの指導者とわたしは一つ。彼の言葉は、わたしの言葉」(1308)。イエズスは、告解の際シスター・ファウスティナがひざまずく度に起こるドラマの、最も重要な第三の人なのです。この不思議で、秘跡的な出来事に、三者とも活動的に参加します。イエズスは、司祭に光を与え、司祭(特にソポチコ神父)は、告解する人を通して自分に導きを与えてくださるようキリストに願います。ファウスティナは、自分の罪を告白するだけではなく、神秘的な体験において学んだことを聴罪司祭に「伝えます」。絶えず彼のために祈り、時には彼の代りに苦しみを受け(596)、困難においては彼を力づけ祈りで支えます。自分の「霊的指導者」の前には決して、何も隠すことがありませんでした。そして彼のために光を願いながら、彼に絶対的信頼をよせていました。「内面的にいただいているすべての知識よりも、わたしにとっては聴罪司祭の言葉の方が重要なものなのです」(680)。聴罪司祭は、霊魂の深奥を知るように努め、真実と幻想とを見分けなければなりません。「霊魂が、ある瞬間、ある状態やある場合に、どの位重荷を背負うことが出来るかということが分るために、彼は、各々の霊魂についてはっきりした判断を絶対にしなければなりません」(112)。確かに、不思議な恵みで満たされた霊魂を理解するのは非常に難しいのですが、そのような理解があれば、現実的に神の働きを認めない小心な聴罪司祭によって与えられる(ファウスティナ自身も経験した)苦しみから多くの信者が守られたに違いありません。「浄化と試練」、つまり感覚の受動的な暗夜を通して神と一致した霊魂さえも、与えられた恵みを無駄にしないように、直面しなければならない戦いにおいて勝利を納めるために「霊的指導者」を必要としているのです(121参考)。霊魂が「頂上に置かれた」時も、間違った一歩を踏むことによって深淵に落ちるということがないように導きを必要としています。「ですから、わたしは、聴罪司祭において、見える神の手をつかんでいるのです」とシスター・コヴァルスカは、一九三六年十月十二日付のソポチコ神父への手紙に書いています。ファウスティナが、何よりもこの二人の聴罪司祭に感謝をしていたのは、彼等が、彼女の神への「激しい」愛を抑えずに、むしろ、彼女が神の愛の太陽へ「飛べるように翼を広げてくれた」(257)ことでした。彼等の言葉はいつも「最高の聖性」へ導く「火の柱」(233)となっていました。

ソポチコ神父は、彼女が臨終に至るまで、その「最高の聖性への熱望」を実現するよう知恵を持って献身的に手伝っていました。彼は、ファウスティナの飛翔(彼に出来たのは、それを見守り、間違いから守ることだけでした)や苦難(その価値について教えることしか出来ませんでした)を注意深く見守り、彼女が与えられた恵みに忠実に生きるように励まし、使命を果たすよう彼女に協力していました。ファウスティナの死に至るまで、この優れた神秘家と、知恵に満たされた「彼女の霊的指導者」との間に、色々な方法によってキリストも参加するこの特殊な対話が続きました。最終的にはキリストご自身がファウスティナの霊魂を養成し、彼女によって色々な教えが司祭に伝えられました。それは神のみ旨に適うものだという確信を待たない限り、ソポチコ神父は何一つ決断をせず、忠告もしませんでした。彼は、ファウスティナが神との最も深い一致の状態にあるということを意識していましたから、指導しながら指導を求め、命令しながら、助言を願いました。彼に理解の出来ないことがあった場合には、このことを神ご自身に説明していただくために、ファウスティナを告解の席から度々御聖体の前に送ったりしました。ある手紙に、新しい修道会創立の可能性という重要で難しいことについて書いた際に、「それが、神のみ旨に適うかどうかわたしにはまだ分りません。ですから、何も決定的なこともシスターに勧めることは出来ません。・・・・・・あらゆる点で調べ・・・・・・主イエズスと相談してから、すべてについてわたしに書いて下さい」と単純に述べます。ソポチコ神父も、ファウスティナとキリストとの対話の中に活動的に参加したと思われます。なぜなら、シスター自身が、この司祭を相応しい神の対話者として認め、彼に神のみ旨を見分けるように頼んでいるからです。「わたしが、非常に強い関心を持つこのこと(新しい修道会の創立-L.G.)に関して、あらゆる点について短い間でもイエズスとお話しして下さい。そして、この光に基づいて、人間の考えを一つも含めず、どんな被造物、わたしのことさえも気にせずに、ただ神のみ旨にだけ適う返事をわたしに送って下さい。」 シスター・ファウスティナとソポチコ神父の友情の話は、何よりも神を愛し、彼等に示された神のみ旨を実行するように努めた二人の聖人伝といえます。救い主が、彼等の人生に入り込まれ、彼等と共にお歩みになるので、彼等の心は感謝と驚きに満ちていました。地上での二人の生涯に関するこの美しい物語は、ソポチコ神父が死に臨んでいる修道女の病室を見舞うところで終わっています。死の二ッ月前、プロンドニクの病院に彼女を見舞った時、「自分に何か伝えることがあるか」と思いやりをもって問うソポチコ神父に答えて、シスターは短く「いえ」と言いました。彼女の病室を出、暫くして彼が病室に戻ると、エクスタシーの中にいるファウスティナを見ました。「私は祈りをしているシスターの姿を見ました。彼女は座っていましたが、ほとんどベットから浮いているようでした。その目は、何か見えないものをじっと見つめていて、ひとみは少し大きくなっていました」。シスターとの最後の出会いは修道院で九月二六日、つまり死の九日前に行なわれました。以前のすべての出会いとは違うと同時に、又、以前の出会いと非常に調和のとれた出会いとなりました。彼はたくさんの質問をしたいと思いましたが、彼女は全然答えませんでした。もう別の次元に生きていました。「天の父との交わりで忙しいのです」といつものように純真さをもって説明します。多年の聴罪司祭は、彼女の別の(やっと真実な)姿を見出しました。数年たってから、「天上の存在であるように見えました」と、思い出を話して、こう付け加えています。「その時、『天使によって聖体を授けられた』と彼女が日記に記した出来事は事実であったと初めて納得しました」と。この出来事によってソポチコ神父は、シスターが数年来話していたこと、彼自身、その中の多くを公に繰り返したことが、本当に神から出たものであったという最終的な証明を与えられたのです。それは、彼にとってすべての苦難や苦労の最高の報いとなりました。こうして、彼の使命、霊魂を導くという難しい使命が終わろうとしていました。シスター・ファウスティナはもはや、彼の助けを必要としていませんでした。ファウスティナは、今、多くの恵みのうちの一つとして、数年前に聴罪司祭を送って下さった花婿に会うよう歩んでいました。 ソポチコ神父とファウスティナの霊的な友情は、マルガリタ・マリア・アラコックとクロード・コロンビエールという二人のフランス人の聖人の友情に似ています。彼女は聖なる神秘家、素朴な修道女であり、彼は聖なる司祭、知恵に満ちた聴罪司祭、指導者でした。彼女は謙遜に恵みを受け、彼は神学専門家としてそれを説明し教会に伝えました。それは教会にしか見られない、共同の聖性への召命における、女性の直感と司祭奉仕職という調和のとれた協力の素晴らしい例なのです。

6 最後の数年

シスター・ファウスティナがヴィルノを出てから、ソポチコ神父との最後の出会いまで二年以上立ちました。この期間を彼女は主にクラクフのワギエフニキ修道院とプロンドニクの病院で過ごしました。一九二八年からもっていた病気は、クラクフに来て初めて発見され結核と診断されました。しかし、その時、病気はすでにその進行を防げないほど進んでいました。しかし、シスター・ファウスティナは重い肉体の労働をやめません。最後の一年だけ、何回も入院し、又、受付の仕事をすることによって休息をとりゆっくりと物を書くことが出来るようになりました。一日の大部分を祈りと観想で過ごしたいという願いはやっとこの時実現されたのです。しかし、決して自分が、恵まれた神との一致や孤独に閉じこもろうとはせず、いつも自分が感じたことを勇気をもって発言しました。時に、ビジョンや内面的な声に影響され行動に移したくて我慢できなくなることもありました。それを示すために、ファウスティナ自身が力強く明瞭に描いた次の出来事は、一つの例としてあげられるでしょう。それは、臨終の床にある一人の修道女の元に集まった全共同体の祈りの最中に起こったことです。その時、シスター・ファウスティナは「大勢の暗闇の霊」を見て、すぐに何かしなければならないと思い、それを控えることが出来ませんでした。「回りに他の修道女たちがいることも忘れて、聖水かけを取り、彼ら(悪霊)に聖水をかけました。すると、たちまちすべては消えてしまいました」。そして「犯罪人」はこう続けます。「しかし、食堂に戻ったら、司祭がいる限り病人に聖水をかけてはいけないと上長に注意されました。・・・・・・この注意を償いとして受入れました。しかし、聖水は、死に臨んでいる人々に大きな安らぎを与えるに違いません」(601)と。 最後の数年、シスターの戦いは、病気においてだけではなく、神のいつくしみの礼拝を広めるという神に与えられた使命を実現する際におこってくるものでもありました。この使命遂行にあたっては協力者が見つかり、初めて「外的」実りも見えてきました。ソポチコ神父とマーザモラチェフスカの努力によって印刷された御絵と祈りの花束は、神のいつくしみの信心が広まる目に見えるしるしとなったわけです。修道会でも、このことは次第に知られ、認められるようになってきました。シスター・ファウスティナによって伝えられた、神の祈りへの呼びかけは、彼女の修道院で増々受入れられていきました。修道女たちは生徒たちと一緒に祈りの花束を唱え、神秘家が「伝えた」意向のために神のいつくしみに対するノヴェナを行ないます。 シスター・ファウスティナの大小様々な苦難は死ぬまで続きますが、重い病気をもつこの無口な修道女の聖性の評判はますます高まっていきました。生徒に大きな影響を与え、無駄な話をしている修道女たちをためらわずに叱るこの謙遜な修道女の偉大さが分る姉妹の数が増えていきました。姉妹たちは、シスター・ファウスティナがどれ程神に近い存在であるかということを感じ、ますますひんぱんに忠告や祈りを願います。けれども、それらは、病気による肉体的苦病や並はずれた努力のうちに神のみ旨を果たそうとする所から生じる霊的な苦悩に満ちた日々の生活を幾分も楽にしたわけではありませんでした。確かに、彼女は神のいつくしみに対する礼拝が発展していくのを見ることが出来たし、自分に与えられた使命をよく果たしたという「神の保証」も与えられました。しかし、又、新しい問題が出てきました。それは、観想と、神の愛に反する人間の罪の償いと、神のいつくしみの礼拝を主な務めとする新しい修道会の創立に関する神のみ旨を正しく見分け、そのみ旨を実行するということでした。ファウスティナは、ある時は大きな平安と確信のうちにあるかと思えば、ある時は、困惑に落ちて、自分の修道会を退会すべきではないかと疑ったりもします。彼女は、ソポチコ神父に忠告を願いますが、これほど自分の心にとって大切なことに関しても正しい順序に逆らうつもりはありません。「何よりも先ずは、神なのです、・・・・・・この事業は、いわばにのつぎです。それは、わたしの神との一致の結果で、わたしの神との親しい交わりが産み出した花のようなものです」と書きます。ソポチコ神父はこの修道会を創立するために働き始めました。自分の司教と話し、そのためにヴィルノに家まで買いました。しかし、彼女に自分の修道院を出るようにとは一度も要求したことはありませんでした。他の多くの場合と同じように、今回も知恵と神のみ摂理への従順を示しました。けれども、修道会に関する今後の動きはシスター・ファウスティナの決断によりましたから、彼女はもっと難しい立場にありました。彼女は、神のみ旨を見分けるために最後の努力をした後に、非常に強く望んだこの事業を放棄するという苦しいけれど確かな決心をしました。この道を探し求めることにおいて、彼女のキリストとの親密な関係とその意志への絶対的従順がよりはっきりと見えます。後ほどもっと詳しく話しますが、シスターにとってこれは最後の浄化、最後の霊的な戦いとなりました。「神のみ旨に従おうとして、そのみ旨をより完全に見分けるために受けた内的苦しみによって、前の十年間よりこの二年間でもっと大きく成長をとげました」(981)と彼女は告白しています。その「内的受難」とは、直接に受けた神のみ旨に関する知識と従順の誓願に対する忠実との分裂であり、非常に大切にしていた事業への愛着とそれを放棄する苦しみ、神への愛の最高の行為に変えられた苦しみとの分裂でした。「我がイエズスよ、わたしの完徳とは、あなたが、わたしにそんな大きな業を行なうように命令することによるのではなく、・・・・・・あなたへの愛によるものだと分っています。・・・・・・あなたに対して誠実であり、あなたの望みを実行したいのです。主よ、あなたに命じられたすべてを行なうために理性と力を尽くしていますが、そのことに少しも愛着していません」(984)。 新しい修道会の創立は、ソポチコ神父に任せた神のいつくしみの信心を広めることよりも、大切になりました。この修道院は、シスターの二つの最も大きな望み、つまり観想生活といつくしみの礼拝を広める使命を結び合わせるはずでした。このことに関して、修道生活の初期と最初のビジョン後に疑っていた時と同じように、すべてを神と、シスターにとって教会を代表する人々に委ねます。修道会を出るように大きな「圧力」を感じるにもかかわらず、ソポチコ神父につぎのように確信させます。「神父様と相談せずに、自分一人で決して何も重要な決断をしないことは確実です」。 確かにファウスティナは、新しい修道会の創立が、神のいつくしみの教えを広めるため、またはこのいつくしみを祈るために役に立つと確信をもっていましたし、それを心から望みました。しかし、その望みの実現をやめたのは、御絵の制作のため、または神のいつくしみの信心を広めるために努めたのと同じ理由でした。それは、神に忠実に生きるという意向に他なりませんでした。いつも、キリストが(御絵に付け加えるべき言葉の場合のように)何回も、はっきりと要求したり、詳しく説明したりしたことをすぐに行ないました。「霊魂の最も深いところでは、わたしは神のみ旨で生きています。そして、内面的に神のみ旨を見分けるほどに、外面的な行動をします」(678)と説明します。新しい修道会が創立されなかったという事実は、シスターの苦しみの原因となったが、反逆の気持ちを起こさなかったのです。一九三八年の夏、病院の個室にいるファウスティナは、自分の使命を充分に果たしたという確信をもって、明るい気分で一杯、安心しています。「永遠の婚宴」のために心の準備をしながら、絶えずいつくしみを願い、知り合った病人や知らない罪人のために祈りと苦しみを捧げています。 一九三八年の六月、キリスト御自身の指導のもとで最後の黙想会を行ない、八月に総長への最後の手紙を書きます。この手紙には、自分の過ちを謝って、終わりに普通の挨拶の代りに「では、天国で会う時まで」と書きます。プロンドニクの病院から修道院に移された九月に、姉妹たちとソポチコ神父に別れを告げます。十月五日にアンドラシュ神父に最後の告解をした後、同日の夜遅くに息を引き取ります。二日後、修道院の墓地では、質素なお葬式が行なわれました。二十八年後に、シスターの遺体は、聖堂に移されて、その右側に置かれました。その時からファウスティナの墓は、教会がシスターを 聖人に上げる今日に至るまで祈りと崇敬の場所となりました。