第十四講話

神の子イエス・キリスト

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イエス・キリストが全人類に非常に大きな影響を及ぼしたことは、誰も否定のできない事実です。けれども、イエス・キリストが、誰であったかということについては、イエスの時代から今に至るまで、沢山の意見があります。

「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」(ルカ 9、18)というイエスの問いに答えて弟子たちは、次のように言いました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(ルカ 9、19)。

さらに、「イエスは、マリアの息子で、大工である」(マコ 6、3)とか、「善い先生」(マコ 10、17)や、「神のもとから来られた教師である」(ヨハ3、2)と考える人もいれば、「ベルゼブルに取りつかれている」男(マコ 3、22)や、「気が変になっている」男(マコ 3、21)や、「民衆を惑わす者」(ルカ 23、14)、また、「神を冒涜する」男(ルカ 5、21)などと考える人もいました。

その後イエスは、死刑囚であった、変わったセクトの創立者であったと考える人がいれば、優れた知恵をもっていた人、徹底的に愛に生きた人であったと考える人もいます。

イエスは、自分の弟子に向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねたら(マタ 16、16)弟子たちを代表してペトロが次のように答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ 16、17)。実は、この答えは、2000年の間のキリスト教の信仰の中心となっているのです。

そして、この信仰の由来は、イエス・キリストの自己理解にありますので、イエスがご自分自身について、語ったことを紹介したいと思います。

イエス・キリストの自己理解

福音書は、イエス・キリストの誕生に関連する様々な出来事について割合と詳しく語っていますが、子供の時代について殆ど何も語っていません。唯一の例外は、イエスが12才になったときに、両親と一緒にエルサレムの神殿へ巡礼した後に、一人で神殿に残った出来事です。この出来事について語られている中に、その時のイエスの自己理解を表す言葉が記されています。それは、イエスが両親に黙って神殿に残った理由についてのお母さんであるマリアからの質問への答えとして述べた言葉です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ 2,49)。

実は、ギリシャ語で書き記されているこの言葉は、翻訳しにくいものですが、大切なのは、イエスは、神のことを「父」と呼んでいること、そして、父である神に属するものに留まらなければならない、例えば、父の家、つまり神の家である神殿にいなければならないとか、父である神の「仕事」をしなければならないとか、神から与えられた使命を果たさなければならないように考えているということです。要するに、イエスは、もうすでに12才のときに、ご自分の神との関係を親子の関係として考えていたこと、言い換えれば、ご自分が神の子であると考えていたことが分かるわけです。

イエスは、30才頃に始められた活動の中で、度々神のことを父と呼んで、神との特別な深い交わりの内に生きていることを宣言しました。それは、神がもっておられるすべてのものは、イエスのものであり(ヨハ16,15)、イエスを見る者は、神を見る(ヨハ12,45)、また、イエスを受け入れる人は、神を受け入れ(マタ10,40)、イエスを知る人は、神を知る(ヨハ14,7)と言われたほど深い交わりであり、また、イエス・キリストと父である神と一つになっている(ヨハ10,30)とまで言われたほど深い交わりであると語ったのです。さらに、イエスは、父である神に遣わされて、天から来られた(ヨハ3,17; 6,38)ご自分とご自分が示そうと思う者のほかには、誰も神を知らない(ルカ10,22)と宣言したのです。

当時のユダヤ人たちのイエスの言葉の理解

確かに、「神の子」という称号は、旧約時代にも使われていました。この称号は、神と特別に親しい関係、また、神との間に結ばれた養子身分を表すために、天使や選ばれた民、また、イスラエルの子らと、その王に与えられていたのです (カトリック教会のカテキズム441) 。

けれども、イエスが神を御自分の父と呼んだだけではなく、ご自分の神との関係について以上のように語られたために、ユダヤ人たちは、イエスが「御自身を神と等しい者とされた」(ヨハ5,17-20)ように、また、ご自分を神とするように理解したので、イエスが神を冒涜した(ヨハ10,33)と考えて、イエスを迫害し、イエスを殺そうとしたわけです。けれども、ご自分が神の子であると宣言されたために迫害されても、イエスはこの宣言を取り消すことがなかったのです。

イエスは、ユダヤ人の裁判の最中、大祭司に「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」と聞かれたときに、死刑になることを覚悟しながら、神と同じ神性を所有している神の子であると認めたのです(マタ 26,63-66)。

教会の信仰

使徒ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16,17)と言った後に、イエスは、次のように言われました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16,17)。要するに、ペトロの信仰は、彼の努力の結果ではなく、神ご自身の働きの結果、神の恵みであったということです。

同じ信仰の恵みを受けた使徒パウロは、「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝え」(使9,20)ました。

また、ヨハネは、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハ 1,18)という言葉を以て自分の信仰を告白したのです。

ヘブライ人への手紙の中で、使徒たちをはじめ、教会全体のこの信仰は、次のように表現されています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れで」(ヘブ 1、1-3)あるのです。

イエス・キリストは、誰でしょうか。

「イエス・キリストは、誰ですか。」という質問に関して、おそらく、二つの答えしかないと思います。

まず、一つは、イエスは、神の子ではなかったという答えです。その場合、イエスは、人々を惑わすために故意に嘘をついていたか、人間的に考えれば全く非現実的なことを信じるほど大きく精神的な問題をもっていたか分かりませんが、イエスの働きとイエスの教えは、意義のない全く無駄なものになります。なぜかというとイエスは、ご自分自身をその教えと働きの中心にしていたからです。

もう一つの答えは、イエスは、ご自分が宣言された通りに、真に神の子であったということです。その場合、イエスの働きと教えは、有意義なものであるだけではなく、すべての人々にとって罪の結果から自由になり、永遠に愛に生きるための、唯一の希望になるのです。

「イエス・キリストは、誰ですか。」という質問に答える前に、イエスが用いた「神の子」という表現の意味、それから、ご自分が神の子であると宣言されたイエスは、この宣言が事実であるということをどのように証明されたかということを知る必要があると思います。

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