年間第24主日A年 (マタ18,21-35)
「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」マタ18,21-22
私たちは、自分の体を傷付けたら、この傷の大きさに応じて相応しい手当をしなければ、この傷が治らないし、私たちは普通の生活に戻ることができないと知っているので、その通りに手当するのは常識でしょう。
体の傷に関する常識は、残念ながら、精神的な傷に対しては常識になっていません。というのは、殆どの人は、精神的な傷を負わされた後に、この傷を手当する代わりに、この傷を軽んじたり、忘れようとしたりすることによってそれを放っておくか、この傷を負わせた体験をいつも思い起こしたり、これについていろいろな人に話したりすることによって、この傷を常にいじるか、どちらかだからです。両方の場合とも、傷が治らないし、私たちは、前の生活に戻ることもできません。おそらく、多くの人がこのような態度をとるのは、自分が出逢った悪があまりにも大きくて、相手をゆるすことも、受けた傷が治ることも不可能であると考えて、前の生活に戻る希望が持てないからでしょう。
確かに、精神的な傷の癒えることは、体の傷の癒えることよりも難しく、大きな努力や長い時間がかかることもありますが、私たちは、この傷やそれを負わせた苦しい体験をキリストの目で見ることができるならば、癒える過程を早めることができます。
キリストにとって最も大切な宝とは、父である神との愛の交わりでした。そして、イエスは神の愛をよく知っていたので、悪が人間からいろいろな大切なものを奪い取ることができても、決して神の愛を奪い取ることはできないし、神との愛の交わりを滅ぼすこともできないという確信を持っていました。それから、神はもっとも恐ろしい悪を、この悪の攻撃を受けた人との愛の交わりを深めるために用いることができると知っていました。ですから、イエスはどんな大きな悪と出逢っても、すべてを父である神にゆだねることができたがゆえに、受けた傷はすぐに治りましたし、イエスの愛、神に対する愛も、悪を行った人に対する愛も深まっていったのです。
天地万物を造り、治められる全能の神よ、 あなたの民を顧みてください。 わたしたちが救いの力を知り、 心を尽くしてあなたに仕えることができますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。