第12講話

なぜ人間が罪を犯すのか

PDF

前回見たとおりに、罪は、人間にいろいろな害を与え、自由を弱めることによって愛することを不可能しますし、最終的に永遠の死をもたらすものです。それなのに、昔も、今も、ほとんどの人々が、非常に頻繁に罪を犯しています。それは、なぜでしょうか。どうして、人々は、罪を犯すことによって、自分自身に害を与え続け、不幸を招いているのでしょうか。

一人ひとりの人が罪を犯す具体的な理由は、様々で数えきれないほどたくさんあるでしょうが、大事なのは、自分自身が罪を犯す原因を見出すことです。自分自身の罪の原因、また、この罪が自分自身の人生に及ぼす悪い影響を見だすために、自分自身の生き方を見つめる必要があるわけですが、それは、個人にしかできないこと、逆に言えば、個人がやらなければならないことです。そのような努めを少しでも支えるために、幾つか、一般的な原因について話したいと思います。

  1. 誘惑

まず一つは、誘惑です。誘惑とは、実現の出来ないことを約束することによって、神の望みに反する非現実な望みを人間に与えることです。人間は、この嘘を信じて、誘惑が与えた望みを実現しようとして、罪を犯すがその結果は、期待したものと全く違うものになります。それは、正に、神無しに神のようになろうとして、善悪の知識の木の実を取って食べたエバが、神のようになる代わりに、神との親しい交わりと神の似姿の輝きを失ったのと同じようなことです。

  1. 欲望

罪を犯す二番目の理由とは、人間自身の欲望です。欲望とは、人間の本性を知らずに、自分にとって真の悪とは何であるか、真の善とは何であるかということを知らないために、自分自身に全く必要のないもの、または、自分に害を与えるものが自分にどうしても必要であると思い込んで、自分のための善としてそれを強く求めることです。

ときに求められているもの自体が罪であります。例えば、他人の妻や夫を求めるようなことです。また、求めるもの自体は、罪でなくても、この望みを実現する手段は、罪となることがあります。例えば、自分が評価されることを求めて、他人についての悪口を言うとか、相手の期待に応じるために、罪を犯すようなことです。

  1. 不愉快な感情

不愉快な感情が、罪の原因になり得ます。恐れ、不安、怒り、憎しみ、悲しみなどのような感情があまり激しくなると、非常に大きな苦しみとなります。この苦しみを無くすために、この感情をもたらす問題を見出して、それを解決することが一番良い方法です。けれども、多くの人々は、すぐに楽になりたいために、不愉快な感情の原因となっている問題を解決するために時間をかけることなく、不愉快な感情を抑えるためとか、それを発散するため、または、愉快な気持ちを起こすことによって自分を慰めるために、自分に可能なことをします。多くの場合、この人々は不正な手段を用いますので、少し楽になるために罪を犯すことになるわけです。

  1. 絶望

罪の次の原因として考えられるのは、絶望です。自分がいつか必ず死ぬことを意識して、自分の死を超える希望をもたない多くの人々は、人生を可能な限り楽しむことにおいてのみ、生きる意義を見出しているようです。未来に対して何の希望をもたない人々は、楽しみとなるような行動が、罪、つまり、結果的に大きな害を与えるようなものであっても、それを気にすることなく、楽しむチャンスを全面的に生かしています。要するに、少しの楽しみのために罪を犯すということなのです。

  1. 妬み

罪の原因となり得る、次のことは、妬みです。罪の状態に生きている人々は、自分の人生の意義を見出せないことや絶望感や深い悲しみなどに悩まされていて、不幸になっていても、表面的には、明るくて、楽しく、幸せに生きているように見せることがよくあります。

このような表面しか見えない周りの人々は、罪と言われている行動によって人間が人生を楽しんで、幸せに生きることが出来ると思うようになったら、自分にも幸せになる権利があると言い訳しながら、罪を犯すことによって幸せを手に入れようとすることもあります。

  1. 精神的な傷

心の傷も罪の原因となり得ます。誰かに何らかの言葉や行いによって心に深い傷を負わせられた人々の中には、被害者である自分に、加害者に罰を与えることによって正義を実現する権利、または、義務があると思う人がいます。そして、可能な手段、たとえそれは、不正な手段であったとしても相手に復讐します。いくら被害者であっても、また、正義を行うつもりであっても、相手に対して不正を行うならば、それは罪を犯すことになるのです。

  1. 執着

多くの人の場合、自分の生き方への執着が、罪を犯す原因、また、罪に留まる原因となっています。自分の生き方が間違っていること、それとも罪になっていることに気が付いても、その生き方に執着しているならば、その生き方を変えることは、非常に難しいことです。なぜかというと、人間は慣れてきた生き方を手放そうとするときに、今まで大切にしてきて、頼りにしてきたものを捨てるかのように、場合によっては、自分を支えてきた友達を裏切るかのように戸惑い、寂しさ、悲しみを感じます。と同時に、新しい生き方に関して心配や不安や恐れなどのような気持ちを抱いているからです。

変化に伴うそのような苦しみを避けるために、古い生き方を続けることを選ぶ人がいます。結果的に、この人は、自分の人生を正すチャンスを無駄にしてしまい、罪に留まることを選ぶことになるのです。

  1. 依存関係

他の人や物との依存関係に入ったら、人間が自由意志を失ってしまいますので、このような生き方が罪であるとか、自分に大きな害を与えているということが分かって、それをやめようと思っても、自分の力だけで、やめることが出来ないために、それを続けて、次々と新たな罪を犯すわけです。

全ての罪の共通の根

人間が罪を犯す具体的な原因は以上のようなもの以外にも沢山ありますが、すべての罪の原因には少なくとも、一つの共通点があるということが言えると思います。この共通点とは、人間の神との正しくない関係です。

というのは、神を知らない人は、人間の本性を知らないから、誘惑の嘘を信じるし、自分に害を与えるものを善として考えて、それを求めています。また、神の愛と神の力を知らない人は、人生の意義を見出せないし、自分の苦しみの原因となる問題を解決する希望とか、完全に幸せになる希望をもっていませんので、罪を犯すことによって、永遠の不幸を招きながらも、直面している苦しみを和らげようとし、現在の人生を楽しもうとしています。それから、人間は神を信頼しないからこそ、復讐しますし、不正な生き方をやめることが出来ないのです。

人間がいくら努力しても、この地上のものによって幸せになれないのは、神の似姿として創造された存在、神との愛の交わりに生きるために創造された存在として、愛の完成によって神と一体となる時だけ完全に幸せになるからです。人間は、少なくとも、人間の本性を表す自分自身の心の望みを注意深く見つめたならば、この事実をある程度まで認識して、この地上の現実を超える方向に向かって、自分の心の望みを満たす可能性を探し求めるでしょう。

残念ながら、多くの人々は、最初の人間と同じ過ちを犯しています。すなわち、神を無視して、自分の力だけで幸せになろうとしているということです。このような試みは、有意義なものであると信じることが出来るために、また、成功する可能性があるという希望をもってそれを続けるために、自分の力で満たすことのできない自分の心の望みをはじめ、現実そのものを無視します。そして、神のような超自然なものに助けてもらう必要がないという確信をもちながら、自分が作り上げた幻想の中で生きているのです。

人間は、神の似姿として創造された自分の偉大さと同時に、堕罪の結果に預かる自分の惨めさと無力さを謙虚に認めた上で、創造主で、私たちの幸福を求めておられる神に向かって助けを求めない限り、そして、神に信頼して、神の導きに従って生きるようにならない限り、いろいろな束縛から自由になることも、愛において生きることも、完全に幸せになることも全く不可能なのです。

目次に戻る