第十三講話

罪のゆるし

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日常生活において過ちや罪をゆるすことは、多くの場合、罰を免除することを意味します。ときに、相手の悪事をゆるすとは、この悪事を我慢することとか、その悪事を忘れることであると思う人がいるようです。その場合、悪事をゆるすとは、それを許可することにもなりますので、相手の人間としての成長を妨げて、悪化させることもあるでしょう。

前に、説明したように、キリスト教において用いられる「罪」という言葉は、法律を犯すこととか、何らかの決まりや規則、また、誰かの言いつけを破ることではなく、人間の本性と同時に、私たちを創造してくださった神の意志に逆らうことです。人間は、神の意志に逆らっても、神が、復讐の意味で罰を与えることはありませんが、自分の本性に反する行動は、本人に何らかの害を与えるわけですので、この人の苦しみは、罪の結果であるということなのです。

それならば、人間が罪を犯したがゆえに体験する苦しみが、神の働きの結果ではなく、罪そのものがもたらした結果であるならば、なぜ罪を犯した人が神に向かって罪のゆるしを願う必要があるのでしょうか。人間が罪のゆるしを神に願うときには、実際に何を願うのでしょうか。また、神が罪をゆるしてくださるときには、実際に何をなさるのでしょうか。

罪のゆるしのキリスト教的な意味

まず、イエス・キリストがご自分の言葉と生き方によって教えてくださったように、神は罪を犯した人を愛しつづけ、この人のために幸福を求めて、善を行いつづけるのです。考えてみれば、罪を犯すことによって、自分の神との関係をますます悪くする人、場合によっては罪の奴隷になり、自分の滅び、しかも永遠の滅びに向かって歩んでいる人にとって最も必要な善とは、このような状態から解放されることなのです。

罪の奴隷状態から人を解放することができるのは、ただ、神だけなのです。なぜかというと、最終的に神との縁が完全に切られる意味での霊的な死、しかも、人間にとって最大な不幸の状態である霊的な死に導く罪の状態の正反対とは、神と正しい関係に生き、その関係を深めることによって、永遠の命、すなわち、人間にとって最高の幸福の状態である完全な愛の交わりに向かって生きることです。実は、神によって正しい関係に受け入れられること、つまり、神と和解することが、神に罪をゆるしていただくことなのです。

人間は、自分の罪を悔い改めても、神に謝り、罪をゆるしていただくために、どんなことをしても、たとえ、正しく生きても、大きないけにえをささげても、神は、元々、人間を愛することなく、人間がご自分との交わりを受け入れたいという望みがなければ、そのような人間の努力は、全く無駄なことなのです。

けれども、神は人間の罪をゆるしたいという望み、つまり、人間をご自分との交わりに受け入れたいという望みがあっても、人間には、神と和解したいという望みがなくて、この人が神から罪のゆるしを受けたいと思わないならば、神さえも、和解を実現することが出来ないのです。なぜなら、人間の神との関係は、真の愛の交わりとなるために、神は人間に与えてくださった自由意志を徹底的に尊重してくださっておられるからです。結果的に、人間が神と和解するために、神の望みと同時に人間の望みが不可欠なものなのです。

私たちにとって幸いなことに、神は私たちを愛しておられ、私たちと和解することを求めておられます。あと必要なのは、私たちの回心と罪のゆるしを願い求めること、つまり、神ご自身との交わりを受け入れるように神に願うことだけなのです。

人間をご自分との和解に導くための神の働き

神と和解するために必要なのは、人間の回心、つまり、人間が犯した罪を悔い改めて、神にこの罪のゆるしを願うことですが、神は、何もせずに、ただ人間が回心するのを待っておられるわけではありません。人間が罪を犯すことによって神から離れたときから、神は、人間に対する変わることのない愛を表すことによって、和解へと招いておられるのです。

実は、神の愛を最も完全に現してくださったイエス・キリストが、和解へと呼び掛ける神の最も強い言葉です。でも、それだけではなく、神の愛に最後まで忠実に生きたイエス・キリストは、人類を代表者して、神との和解を実現して、すべての人々に神と和解する可能性を与えてくださったのです。

残念ながら、多くの人々が、罪を犯したアダムとエバのように、神を恐れて、自分の罪を神から隠そうとしています。ときに、気楽に生きるために、神の存在そのものを否定する人がいます。けれども、無条件の愛に基づく神の働きは、自分の力だけでは、永遠の死に導く道から離れることのできない人間にとって唯一の希望、唯一のチャンスなのです。このチャンスを生かして、神と和解して、永遠の命に向かって歩むようになるために、まず、イエス・キリストを知るために努力し、イエス・キリストを受け入れる必要があるのです。

神と和解した後の課題

罪をゆるしていただいて、神と和解すれば、すべての問題がなくなって、人間がすぐに完全な愛に生きるようになるということではありません。罪をゆるしていただいた後にも大きな問題が残るのです。それは、カトリック教会カテキズム(1473)の中で教えられている通りに、罪のゆるしをいただいても、罪の対象となっていたものに対する執着の問題なのです。

罪の束縛から完全に自由になって愛に生きるのは、罪のゆるしの結果ではなく、霊的な成長の結果なのです。段々と自由になって、益々深く愛に生きるために、神と和解した人は、罪を犯す機会をさけたり、神の言葉に耳を傾けたり、イエスと出会う機会を増やしたり、イエスの教えを実行したりすることによって、自分とキリストとを結ぶ絆を強めるように努める必要があるのです。その意味で、罪をゆるしていただくことは、今まで犯した罪の結果の取り消しによる、人生のリセットとか、借金の帳消しのようなことではなく、完全な自由と完全な愛に導く道を歩み始めることなのです。

神のゆるしを受けても、そのような問題、また、そのような働きが残っているならば、神のゆるしを受ける意味がないと考える人がいるかもしれません。けれども、実際に神と和解せずに、人間が自分の力だけで、罪の束縛から自由になって、愛に生きるために、いくら努力しても、成功する可能性がないのです。けれども、神と和解した後に、人間はもはや一人ではなく、全能の神と共に生きるし、神ご自身の力によって支えられているわけですから、この努力が成功すること、つまり人間は、自由になって、完全な愛に生きるようになることは可能になるのです。

罪のゆるしを受ける結果

罪のゆるしを受ける結果は、気持ちの変化というよりも、生き方の変化なのです。したがって、誰かが神と和解したかどうかということは、この人が抱いている気持ちではなく、この人の実際の生き方を見る必要があります。すなわち、安心感とか、平和や喜びで満たされたことがあっても、前と同じように生きているならば、この人は、神からの罪のゆるしを受けず、神と和解していないということが分かります。けれども、抱いている気持ちは、どんなものであっても、実際の生き方が改善して、イエス・キリストの生き方に少しでも近づいて、段々と同じようなものになっているならば、この人は、神と和解して、神との正しい関係に生きていることが分かります。

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