三位一体の神秘
イエス・キリストが用いた「神の子」という称号の意味を理解するために、少なくともある程度まで、三位一体の神秘を理解する必要があります。三位一体の神秘は、神の内面的な命を現していますが、それは、人間による考察の結論ではなく、神ご自身がご自分を啓示することによって、人間に知らせたことなのです。
確かに、三位一体の神秘を完全に理解することは、不可能ですが、神の自己啓示の頂点であるこの神秘を理解すればするほど、神の自己啓示となった神の働きをより深く理解することができます。そして、神の働きを理解すればするほど、三位一体の神秘、つまり、神の内面的な命、神の本質をより深く理解することもできるのです。
救いの歴史における三位一体神の啓示
元々イスラエル人たちは、周りの民族と同じように多数の神々を信じていました。けれども、この民の歴史の中で特別な働きをされた神は、ご自分が唯一の神であり、存在しているすべてのものの創造主、全世界の支配者、さらに、すべての人の父であることを知らせてくださいました。
それから、神の子であるイエス・キリストを通して神は、無条件に、また無限に私たちを愛しておられる救い主として、ご自分を現してくださったのです。
父から与えられた使命を果たして、御父のもとに戻られた御子は、御父の霊であり、また、ご自分の霊である聖霊をこの世に遣わしてくださいました。その時から今に至るまで、聖霊は教会の中で、また、教会を通して働いて、イエス・キリストが成し遂げられた救いのわざを完成に導く方として、ご自分を現してくださっているのです。
このように、救いの歴史の中で、神はご自分を唯一の神として、と同時に、父と子と聖霊という三者、三つのペルソナとして啓示してくださったわけです。三つのペルソナが唯一の神であることは、確かに非常に大きな神秘であって、私たちの理解力を超えるものですが、教会は2000年の間、この神秘を理解しようとした試みの結果、幾つかのことをはっきりと言えるようになりました。
唯一の神
父と子と聖霊は、三つの異なる神ではなく唯一の神です。また、父と子と聖霊は、唯一の神の三つの異なる側面とか、三つの異なる形や姿とか、三つの表現などのようなものではなく、同じ神なのです。
神は、一つの本質、つまり一つの神性、また、一つの意志、一つの認識を持ち、一つの働きをしておられます。そのために、神性、意志、認識、働きなどに基づいて、三者を区別することができないということです。ただ三者の互いの関係に基づいてのみ、三者を区別することのできるのです。
父と子と聖霊の相互の関係
父は、子を生む方です。子は、父によって生まれる方です。勿論、ここで用いられる「生む」と「生まれる」という言葉は、自然の意味、つまり、動物や人間の場合に用いるときの意味と別の意味で用いられています。父と子の関係を示すためにこの言葉を使うのは、父と子の関係とこの世において生むものと生まれるものの関係との間に、大きな相違があっても、類似点もあるからです。
まず、動物や人間の場合は、生むものと生まれるものは、本質的に同じものです。つまり、犬から生まれるのは、犬で、人間から生まれるのは、人間であるということです。それと同じように、父である神から生まれたのは、神です。すなわち、同じ神性を所有される方であるということなのです。
それから、生むものは、生まれるのもの本源であるように、父は、子の本源であるということです。ここで、この世の生きものと神との間には、大きな相違があることを意識する必要があります。この世の生きものは、時間の流れに生きているわけですので、子孫が存在していなかったとき、また、子孫を生んだことによって親となった生きものは親でなかったときがあったということです。けれども、時間を超えて存在し、始まりも、終わりもない神の場合は、子が存在していなかったときとか、父は、父でなかったときがなかったのです。父が子を「産むこと」、子が父から「生まれること」は、神ご自身と同じように、始まりも、終わりもないことなのです。
父が子を「産む」、また、子が父から「生まれる」という表現の理解を深めるために、神の子は、神のことばと呼ばれています。人間が自分の言葉によって、自分の意識とか、自分の考えや自分の感情など、つまり自分自身を表現するように、神は、ご自分のことばによってご自分自身を表現しています。
考えてみれば、人間の自己認識も、自己表現も不完全なものですから、人間の言葉は人間の現実をありのまま現しているものではありません。けれども、神の自己認識と自己表現は完全です。ですから、神のことばは、神ご自身と一致していて、父は、子を産む父であり、子は父によって生まれる子であるという違い以外にすべて、つまり神性、意志、認識、働きなどは、全く同一なのです。
父と子は、同じ愛をもって互いに愛し合っています。この愛は聖霊と呼ばれる神聖な第三ペルソナなのです。この意味で、聖霊は、父と子から発出しておられるということです。
神は唯一でありながら、三者ですので、孤独な存在ではないし、各々の方はご自分のためにだけ生きておられるのではなく、他者のために、他のペルソナのために生きておられるのです。
完全な愛の交わりである神
他者を愛するとは、自分自身を他者に献身すること、また、他者をありのまま受け入れることであるということを、イエスがご自分の生き方、特にご自分の死によって教えてくださったのです。
神である父から常に生まれている神である子は、すべてを父から受け入れていて、ご自分のすべてを父に与えています。完全な交わりであり、完全な一致をもたらす、父と子の相互愛は、聖霊という神聖なペルソナになるほど、完全なものであります。この意味で、聖霊は父と子の相互愛の実りであり、生きた愛、人格的な愛であると言えるわけです。
父と子と聖霊という三者(三つのペルソナ)が互いに愛し合っておられるとは、お互いに与え合い、また、互いに受け入れ合うということです。父と子と聖霊の愛は、完全ですので、父と子と聖霊は完全に与え合い、完全に受け入れ合っておられる結果として、各ペルソナ全体は他の二者の内におられ、三つのペルソナは、一体になっておられるということです。
完全な愛の交わりに招かれている人間
確かに、私たちはいくら探しても、この世の中でこのような完全な愛を見つけ出すことができません。けれども、心の中でこのような愛を求めていますし、このような愛だけが私たちの心を満たすことができるのです。なぜなら、私たちは、完全な愛の交わりである三位一体の神に象って、また、この愛の交わりにあずかるために創造された存在であるからです。
神が人間を愛しておられるとは、人間にご自分を与えてくださること、また、人間を受け入れることによって、人間と一つになることを求めておられるということなのです。言い換えれば、神が私たちを愛しておられるからこそ、私たち一人ひとりをご自分との愛の交わりに招いてくださるのです。
残念ながら、堕罪のために人間がこの招きに応えることは、不可能のなってしまいました。けれども、幸いに、神は私たちを愛し続けておられるから、人間が三位一体の神の愛の交わりに参加することを再び可能にするために、御独り子が天から下って来て、人間になられたのです。