「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」マコ1,36-38
もし、イエスが頼まれた時に必ず病気の人を癒してくださったならば、どんなことになったのでしょうか。恐らく聖マルコが描いているように、数え切れないほどの人々、もしかしたらほとんどすべての人々がイエスのもとに来たのではないかと思います。けれども、同じ福音書が伝えている通り、イエスが人の願いに応じない時もあり、すべての人の病気を治すわけではありませんでした。そのため、病気を治してもらいたい人々の中には、イエスにがっかりする人があっても不思議ではなかったと思います。
どうしてイエスはすべての人の病気を癒すわけではないのでしょうか。どうしてイエスは、ご自分にがっかりする気持ちを持つことを人に許しているのでしょうか。
確かに、ペトロの姑のように、癒しの恵みを体験することによって、感謝の念を抱き、愛を実行して人に奉仕するようになる人、つまり体の癒しだけではなく心の癒しも受け入れる人もいますが、ほとんどの人は、感謝もしなければ、自分の生き方を変えることもありませんし、勝手に自分の都合のためにイエスを利用しようとしているだけです。
イエスが求めておられるのは、すべての人が完全に幸せに生きることです。そのためには、体だけではなく心も魂も癒したいと望んでおられるのです。最終的には、父である神と一体になることが私たちの完全な癒しになるのです。そのためにイエスは、私たち一人ひとりに合わせて、父である神のもとに導こうとしています。大事なのはイエスを信頼して、自分の期待に合わない言葉や行いにおいても、その導きを見いだしてイエスに従うことなのです。
信じる者の力である神よ、 尽きることのないいつくしみのうちに わたしたちを守ってください。 あなたの恵みを唯一の希望とするこの家族が、 いつもあなたの力によって強められますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、 支配しておられる御子、 わたしたちの主 イエス・キリストによって。アーメン。

「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。」マコ6,26-28