年間第1木曜日 (マコ1,40-45)

「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」マコ1,45

イエスは重い皮膚病を患っている人に触れることによって、実際にこの人を清めましたが、ユダヤ人の法律上、逆にイエスが汚れたものになりましたので、癒された人が清くなったという証明書を祭司からもらわない限り、イエスは公の場所に行くことができませんでした。癒された人がイエスの言葉に従わなかったために、町に入ろうとしたイエスは自分の計画を実現することができませんでした。けれども、イエスが「人のいない所に」とどまっていても、(もしかして町に滞在していた人よりも)多くの人が四方から集まったので、かえってイエスは元の計画よりも、大きな働きをすることができたのです。

私たちは邪魔されて、思い通りにならないときにも気を落とすことなく、悪や他の望ましくないことから、より大きな善を引き出すことのできる神を信頼して、与えられた使命を果たすために、働き続けることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたはキリストによってわたしたちをあがない、
神の子どもとしてくださいます。
あなたの愛を受けた民を顧み、御子を信じる人々に、
まことの自由と永遠の喜びをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

主の洗礼B年 (マコ1,7-11)

「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」マコ1,8

洗礼者ヨハネから洗礼を受けていた人は、まず自分の罪を告白し、回心を表明してから、水に浸されました。それは一種の「清めの儀式」であって、人の霊的な現実を変えることのできるようなものではありませんでした。洗礼者ヨハネはそれをはっきりと意識していましたので、自分より後に来られる方が、水だけではなく「聖霊で洗礼をお授けになる」(マコ1,8)と語ったわけです。

水による洗礼と違って聖霊による洗礼は、人間の霊的な現実を全く変えてしまうものなのです。父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けることは、受洗者を水に浸すのではなく、三位一体の神の命に「浸す」ということ、すなわち、この人を神に奉献するということなのです。イエスが十字架上でご自分自身を父である神に奉献されたことによって、すべての人々を罪の奴隷状態からあがなってくださいましたので、今洗礼を受ける人は、神の霊、すなわち、神の命に満たされて、神の子どもになります。聖パウロが言うように、この人は「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」(エフェ 2,19)ます。

私たちは、洗礼を受けることによって、確かに愛されている神の子どもになりましたが、必ずしも神の心に適う子になっているとは限りません。神の心に適う子、つまり愛されているだけではなく愛している子になるために、洗礼の時に与えられた聖霊の導きに従って生きる必要があるのです。

聖霊の導きに従って生きることは、自分の成長のために必要ですが、それだけではなく、洗礼の時に与えられた使命、つまり神の国を証しし、福音を宣べ伝えるという使命を、果たすためにも必要なのです。

1月6日 降誕節 (マコ1,7-11)

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のようにご自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」マコ1,9-11

自分が神の子であることは、イエスの最も深いアイデンティティになっていましたので、その身分に相応しい生き方、つまり神の心に適う生き方をし、神の愛と神の命を全世界にもたらすことが、イエスにはできたのです。

洗礼を受けた私たちは神の子どもであるわけですので、この身分をますます深く自覚し、神の子どもであるという事実が私たちの最も深いアイデンティティになりますように。そして、父である神の心に適う生き方をすることによって、イエスと同じように神の心に適う神の子になることができますように祈りましょう。

全能永遠の神よ、
あなたは、ひとり子の誕生によって
世に新しい光を注いでくださいました。
おとめマリアからお生まれになった救い主に結ばれて、
わたしたちもあなたの国の栄光に
あずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。