待降節第3主日C年 (ルカ3,10-18)

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」ルカ3,15

民衆はメシアを待ち望んでいたのに、メシア・救い主が実際に来られたとき、彼を喜んで迎え入れたのではなく、「十字架につけろ」と叫んで、ローマの兵士の手によって殺してしまったのです。それは、非常に悲劇的なことでしたが、私たちの人生においても、同じようなことが起こっていないでしょうか。

人間は、それをはっきり意識していなくても、誰かに意図的に接しようとしているとき、必ずこの人に関して何か期待を持っているものなのです。非常に多くの場合、この期待は出会った人自身や、この人との出会いを評価する基準になっています。この人が、私たちの期待通りに話したり、期待通りに振る舞ったりしたならば、私たちは満足や喜びを感じて、この人を高く評価します。しかし、客観的にこの人が私たちに良いことをしても、それが私たちの期待したことでないならば、がっかりしますし、この人やこの人がしてくれた良いことを受け入れることができないだけではなく、この人を非難したり攻撃したりすることさえあります。このような精神の働きに従って、当時の人々がイエスを排斥してしまったのは、イエスが悪いことをしたからではなく、この人たちがメシアに対して持っていた期待にイエスが応えず、彼らの思う通りには振る舞わなかったからなのです。

私たちは、この人たちと同じような過ちを犯さないよう、キリストを迎え入れる準備のために与えられている待降節の後半を生かし、自分の心を支配しているいろいろな思い込みや勝手な期待、また、余計な執着や拘り等を手放して、私たちのために最善のことを求め最善のことを行ってくださるイエス・キリストを、ありのままに受け入れることができますように祈りましょう。

喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしがちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、
この救いの神秘を祝うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第2主日C年 (ルカ3,1-6)

「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」ルカ3,3

「悔い改め」という日本語に翻訳されている元々のギリシア語の「メタノイア」は、自分が目指す目的や、今までの自分の行いについての考え方を、変えるということを意味する言葉です。どうしてそのような変化が、救い主を迎えるために必要なのでしょうか。

洗礼者ヨハネは、罪人、すなわち創造主である神が示す目的ではなく、それと違う目的を目指す人に向かって、メタノイアを呼び掛けていました。確かに、多くの人が創造主である神が示してくださる道よりも、良い道を知っていると思って、神の導きを無視して、自分勝手に決めた道を歩んでいます。そのような生き方の結果を正直に見つめることができたならば、それは自分が期待したものと全く違っているということに、誰でも気が付くはずです。残念ながら、このような事実を認めて今の道を諦めて新しい道を探す代わりに、殆どの人たちが自分自身を騙して、後もう少し進めばきっと求めているものが手に入るはずだと自分に言い聞かせているようです。

おそらく、人々がこのように自分を騙して、間違った道を歩み続けるのは、他の道は存在しないと心の奥深いところで思っているからです。もしこの思いをはっきりと意識したならば、絶望してしまって生きることができなくなったことでしょう。

確かに、人間は自分だけに頼っている時、他の道を見出すことができないし、その状態は絶望的なものでもあるでしょうが、洗礼者ヨハネは、悔い改めるように呼びかけたと同時に、救い主の到来と共に生まれる新しい可能性をも宣べ伝えていました。私たちは、救い主であるイエスにおいて希望を見出し、曲がった道を離れて、キリストが示してくださる道を真っすぐに歩むことができますように祈りましょう。

永遠の父よ、
御子キリストを待ち望む心をお与えください。
いつも目ざめて祈り、主が来られる時、
喜び迎えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。