年間第17主日B年 (マコ6,1-15)

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」ヨハ6,11

恐らく、イエスが五千人に食べ物を与えた「ガリラヤ湖の向こう岸」というのは、ベトサイダのことです。イエスがフィリポにパンを売っているところを教えてもらいたがったのは、フィリポがベトサイダの出身であったので、この地方を良く知っていたはずだと思ったからでしょう。けれども、フィリポは、素直にイエスのお願いを適える代わりに、そんな大勢の人々のために十分にパンを買うことができるかどうかということについて心配したのです。

確かにフィリポには、集まっていたすべての人々を食べさせることができませんでしたが、パンを売っているところを教えることなら、フィリポにもできることでした。イエスがフィリポに話かけられたのは、フィリポ一人にこの群衆を食べさせるための労を取らせようと思ったからではなく、ただそれに協力するチャンスを与えようとされたからです。けれども、フィリポは余計な心配をしたので、持っていた力さえもイエスに貸すことなく、協力するチャンスを無駄にしてしまったのです。

多くの人々の精神的な貧しさや物質的な貧しさを見たり、世界にある様々な苦しみや悪を見たりして、すべての人々を助けたいという気持ちがあっても、私たちには助けることは決してできないのです。けれども、イエスはフィリポに対して、すべての人々にパンを与えることを要求しなかったように、私たちに対して、この世のすべての問題を解決することや、すべての人を救うことを要求しません。これは唯一の救い主であるキリストにしかできないことなのです。イエスが私たちに求めておられるのは、救いの業に力ある限り協力することだけなのです。この願いに応えるために私たちは、五つのパンと二匹の魚を持っていた少年と同じように、素直にならなければならないでしょう。

信じる人の希望である神よ、
あなたを離れてはすべてがむなしく、
価値あるものはありません。
いつくしみを豊かに注ぎ、
わたしたちを導いてください。
過ぎ行くものを正しく用い、
永遠のものに心を向けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第16主日B年 (マコ6,30-34)

「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」エフェ2,17-18

イエスの教えは、決して簡単ではありませんが、イエスの時から今に至るまで、どんな時代の人も、どんな文化の人も、この教えに喜んで耳を傾けています。どうしてこの教えはそんなに多くの人の心に響くのでしょうか。それは、イエスが人間の最も深い望みについて語り、この望みを満たす方法を教えてくださるからではないかと思います。

残念ながら、イエスの教えを喜んで聞く人が多くても、それに実際に従う人は少ないようです。どうしてでしょうか。イエスの教えを聞いても、それを実行しない一人ひとりは、自分のことを見つめ直して、自分の人生においてイエスの教えを実行するのを妨げるものを、発見しなければならないのですが、一つの理由として考えられるのは、次のようなことではないかと思います。すなわち、人がただ自分の望みだけを満すために、イエスの教えに従って生きようとしているということです。なぜなら、このような動機に基づいてイエスに従おうとしている人は、自分の望みをもっと簡単に、もっと早く満たす方法があるというような話を聞くと、イエスの教えを捨ててしまって、その代わりにこの新しい教えを喜んで受け入れ、それに従ってしまう恐れがあるからです。実際に、そのような甘い話しに騙された人が大勢いるようです。

イエスに忠実に従い、自分の最も深い望みを満たしていただいた人とは、自分の望みを満たすためにイエスの教えを実行しようとした人ではなく、イエスを愛するようになって、どんな状況においてもイエスと共にいたいと望み、イエスの愛に忠実に生き、どうしても相互の愛の絆を守りたいと望むようになった人なのです。

私たちもイエスに最後まで従うためにイエスの言葉を聞いて、その教えを理解するように努めるだけではなく、イエスご自身を見つめて、イエスご自身を知るように努力しながら、イエスを愛する恵みを祈る必要があると思います。