「イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。』」マコ6,2
イエスはナザレで育てられたので、ナザレの人々はイエスのことなら、良く知っていると思っていました。確かに、彼らはイエスの職業とか、お母さんや親戚の名前とかを知っていました。けれども、最も大事なこと、イエスの最も大切な特徴を知りませんでした。それはどういうことかというと、イエスの父は神ご自身であるということです。やはり、イエスは神の子であることや、イエスはすべての人を救うために、この世に父である神によって遣わされたこと、また、イエスの知恵と力と愛が、神ご自身の知恵と力と愛を示していることを知らない限り、イエスを本当に知っているとは言えないのです。
その意味で、イエスの弟子たちもこの時点では、イエスをまだ知りませんでした。けれども、弟子たちはナザレの人たちと違って、イエスを知らないということを意識していましたし、そして、イエスを知るようになるために、開かれた心を持って、イエスに従っていました。結果として、彼らはイエスの本性を知るようになって、イエスを愛するようになり、自分の人生をイエスと結ぶことによって、神ご自身の命にあずかるようになったのです。
私たちも、弟子たちのようにイエスを本当に知るようになりたいならば、イエスをまだ十分に知らないという事実を認めた上で、イエスについての言葉だけではなく、イエスご自身の言葉を聞き、そして聞いた言葉を楽しんだり、この言葉について論じ合ったりするだけではなく、実際にこの言葉に従って生き、この言葉によって自分自身が変えられることを、承諾しなければならないのです。
聖なる父よ、 あなたは、倒れていた世界を、 キリストの死によって 新しいいのちに立ち直らせてくださいました。 信じる者を罪の束縛から解放し、 終わりのない喜びにあずからせてください。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった。世にある造られた物は価値がある。」知1,13-14