イエスのみ心の祭日B年 (ヨハ19,31-37)

 「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」ヨハ19,34

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」マタ11,25-26

イエスのみ心の祭日を祝う私たちは、私たちと同じように有限の存在であったイエス・キリストが、人間の心で愛することによって、無限の存在である神の愛を現してくださったことを思い起こし、感謝します。

私たちは、イエス・キリストをますます深く知ることによって、父である神の愛を知ることができますように。そしてこの愛をますます豊かに受け入れ、イエスと同じように神の愛に生きることによって、この愛をまだ知らない人に示すことができますように祈りましょう。

聖なる父よ、あなたは、
人類の罪のために刺し貫かれた御子のみ心のうちに、
限りないいつくしみの泉を開いてくださいました。
わたしたちが、
心からの奉献によってキリストの愛にこたえることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

キリストの聖体B年 (マコ14,12-16; 22-26)

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』」マコ14,22

私たちを愛しておられるイエス・キリストが、いつも私たちと一緒にいたいという望みはよく分かっていても、何故、イエスはパンとぶどう酒、つまり食べ物と飲み物の形において、私たちのところに残ってくださったのかということが、分かりにくいかもしれません。

考えてみれば、私たちが生きるために、何よりも必要としているのは、やはり食べ物と飲み物です。また食べ物は、生きるために一番望ましいものであるうえに、近づきやすいもので、自分を生かすために誰でも遠慮なく用いるものです。おそらく、イエスが食べ物と飲み物の形において私たちと共に残ってくださったのは、私たちが体を養うために食べ物と飲み物を必要としているように、心と魂を養うためにイエスを必要としているということを示すためでしょう。それから、私たちが遠慮なく食べ物に近づいてそれを食べるように、安心してイエスに近づき、心を開いてイエスを受け入れれば、私たちは生かされるということをイエスが望んだのでしょう。

食べるだけで、体を動かさないならば、健康に害を与えることがあります。同じように、キリストの体を受け入れるだけで、キリストに倣って生きようとしないのは、害をもたらすものであることを忘れないようにしましょう。

人間が食べるものは、生きるために必要な力を人間に与えるだけではなく、その体の一部になります。けれども、ご聖体を拝領することによって私たちはキリストとますます深く結ばれて、キリストのようになっていきます。キリストと一体になることが、聖体拝領の最終的な目的であると言えるでしょう。

恵み豊かな父よ、御子キリストは、
その死を記念するとうとい秘跡を教会に残してくださいました。
主のからだを受け、救いの力にあずかるわたしたちが、
主の死を告げ知らせることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。