四旬節第1主日A年 (マタ 4,1-11)

「すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」マタ4,10-11

神に象って、神の似姿として創造された人間は、自由意志を持っていても、自ら何が善であるか、何が悪であるかということがはっきりとは分かりません。ですから、正しい選択をすることによって人生の最終的な目的に近づくために、つまり愛による神との完全な一致に向かって歩むために、正しい道、正しい生き方を教えてくださる案内者を必要としているのです。

ご自分の命にあずかるために、また、愛によって結ばれて、ご自分と一つになるために人間を創造してくださった、神の言葉を信頼しているとき人間は、自分をこの目的に導く道を知ることができるだけではなく、この道を歩むために必要な力も与えられて、人生の最終的な目的に向かって歩むことができます。

けれども、神を信頼する代わりに、自分と同じように無知な人を信頼したり、「嘘の父」で、人間を憎んでいる悪魔を信頼したりするとき、目指している目的に近づくことができないだけではなく、この目的から段々と遠ざかるし、自分の人生の旅は絶望的なものになってしまうのです。

私たちは、イエスと同じように、どんな状況においても父である神を信頼して、神との愛の交わりの内に生き、御言葉に従うことによって、私たちを惑わそうとしているいろいろな誘惑に打ち勝ち、主イエスと共に神の国に向かって、つまり愛による神との完全な一致に向かって、力強く歩むことができますように祈りましょう。

全能の神よ、 
年ごとに行なわれる受難節の典礼を通して、 
わたしたちに、
キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。 
日々、キリストのいのちに生きることができますように。 
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

 

受難の主日C年 (ルカ19,28-40; ルカ23,1-49)

「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」ルカ23,33-24

イスラエルの長老たちや祭司長、また、律法学者たちは、自分たちが慣れ親しんでいた生き方を守るために、イエス・キリストを犠牲にすることにしました。ローマの総督であったピラトも、自分を守るために、自分の判断に逆らって、イエスに死刑の判決を下したのです。この人々は、特別に悪い人であったというよりも、程度が違っても、非常に多くの人々の生き方、つまり、自己中心的で、他の人に害を与えても、自分の利益のみ求めている人々の生き方を表しているのです。

イエス・キリストは、それと全く異なる生き方をされることによって、私たちに、父である神が求めておられる生き方、人間にとって最善で、人間を生かす生き方を表してくださるのです。イエスは、苦しみや死を前にしても、自分の身分を否定することなく、父である神から与えられた使命を裏切ることがありませんでした。大きな苦しみの最中にあっても、ご自分のことよりも他の人のことを考え、ご自分の利益のために他の人を利用することなく、ご自分が損をしても、苦しんで命を失うことがあっても、他の人のために真の善を行っていました。つまり、どんな状況にあっても、どんな結果が生じても、イエスは必ず、神と隣人に対する愛に生きていたわけです。

私たちは、イエス・キリストが示してくださった神ご自身の愛に力付けられて、どんな状況においても、愛に生き、善を行うことによって多くの人々を生かすと同時に、自らもまた神ご自身の愛と命にあずかって、永遠に生きることができますように祈りましょう。

全能、永遠の神よ、
あなたは人類にへりくだりを教えるために、
救い主が人となり、十字架をになうようにお定めになりました。
わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、
復活の喜びをともにすることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第5主日C年 (ヨハ8,1-11)

「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」フィリ3,8-9

イエスと出会う前にパウロは、律法に逆らって罪を犯す人が必ず罰せられると考えていました。そして、この罰を恐れて、律法を守るように一生懸命に努力していたわけです。けれども、そのような動機は十分ではありませんでした。時に、律法に逆らう欲望の方が、罰に対する恐れよりも強かったので、この欲望に強いられて、自分の意志に逆らって、罪を犯すことがあったようです。律法は、パウロの罪を現わすことができても、彼をこの罪から守ることができなかったのです。

イエス・キリストと出会うことによって、パウロはまず次のことを知りました。すなわち、神は、その部下に対して横暴を極めている法律制定者のように、人間の現状を考えずにいろいろな掟を押しつけて、それに従わない人を罰するような方ではなく、その子どもを愛している父であり、いろいろな掟によって、幸せと豊かな命に導く善が何であるか、また、不幸と滅びに導く悪が何であるかを教え、私たちを正しい道、つまり幸せと豊かな命に辿り着ける道に導いてくださる方であり、この道からそれる人を罰することによってこの人の苦しみを増すのではなく、正しい道に戻るように励まし、力付ける方であるということです。この事実を知ったパウロは、罰に対する恐れから解放されましたが、パウロを罪の支配から解放したのは、イエスに対する彼の愛なのです。

パウロは、イエスの素晴らしさとイエスの愛の偉大さを知ってから、自らイエスを愛するようになりました。そしてその愛のゆえに、彼は何よりもイエスと共に、イエスの愛に忠実に生きることを求めるようになりました。この望みは、今まで得たものを保ちたいとか、苦しみを避けたいとか、自分の命を守りたいというような望み、つまり多くの場合に罪の原因となっていた望みよりも強いものでしたので、パウロはどんな状況においてもイエスと共に生き、イエスに従うことができました。イエスご自身が、父である神が示してくださった道だけを歩む方ですので、イエスに従うことによってパウロは、永遠の命と最高の幸福に導く道を歩むことができたわけです。

全能の、神である父よ、
御子キリストは、人々を愛してみずからを死に渡されました。
わたしたちも、この愛のうちに力強く歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。