12月17日 待降節第3主日B年 ヨハ1,6-8.19-28

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。 これこそ、キリスト・イエスにおいて、 神があなたがたに望んでおられることです。」1テサ5,16-18

「あなたは、どのような人ですか」と問われたら、どのように答えますか。恐らく、どこで、また、誰に質問されるかによって、その答えが変わってくるのではないかと思います。普段、人々は場所や団体によって異なる役割を果たしていますので、自分自身の本性を知らない人は、そのような役割や人の期待に振り回されて、尋ねる人によって異なる答えを与えるだけではなく、どこに、また、誰と一緒にいるかによっても異なる生き方をしていて、結局、自分らしく生きることができないのです。

殆どの人と違って、洗礼者ヨハネは自分自身の本性をよく知っていましたので、どんな状況においても、たとえそれによって人から誉れを受けることになっても、はたまた、支配者の怒りを招いて命を失うことになっても、その本性に忠実に生きていました。洗礼者ヨハネは、そのような生き方をしていたために、世の光である方、また、世の救い主である方を見極めることができましたし、その方を世の光、世の救い主として、皆に指し示して、神から与えられた使命を果たすことができたがゆえに、彼の人生は全うされたのです。

福音記者ヨハネが教えています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」(ヨハ3,19-20)と。世の光として来られたイエス・キリストは、私たちに、一人ひとりの中にある愛すべき素晴らしいところや、自分の本性を知る可能性と同時に、この本性に沿って自分らしく生きる可能性をも与えてくださっています。けれども、この可能性を実現するためには、まず自分の中にある醜いところを、また、悪や罪を認める勇気が必要です。神の無条件の愛こそがこの勇気の源ですので、神の愛を知る恵みと、この愛を信頼する恵みを祈り求めましょう。

喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしがちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、
この救いの神秘を祝うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

12月10日 待降節第2主日B年 (マコ1,1-8)

「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。 見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。」イザ40,10

イスラエル人たちは、神に背いて罪を犯すことで、神から離れて生きる悲しみと苦しみをよく知っていました。そして、神のもとへと導く道を教えられても、自分の力だけでは立ち戻ることができないということも知っていたのです。彼らの状態は絶望的であるように見えましたが、預言者イザヤを通して神は彼らに大きな希望を与えてくださいました。それは神ご自身が彼らのところに来られ、彼らが罪を犯すことによって作った神との距離を、なくしてくださるという約束がもたらす希望でした。そのようなイスラエル人たちがやるべきことはただ一つでした。それは、心を準備して、彼らのところに来られる神を受け入れることであったのです。

実際に、神はイエス・キリストにおいてイスラエル人のところに来られ、この約束を成就してくださいましたが、彼らには心の準備ができておらず、待ち望んでいた救い主を受け入れる代わりに、十字架につけて殺してしまったのです。幸いに、人間が神に逆らっても、人間には神の救いの計画を滅ぼすことはできませんでした。神はキリストの死によって、罪の結果である死を滅ぼし、イスラエルの人々だけではなく、すべての人に永遠の命の可能性を与えてくださったのです。

この永遠の命とは、イエスと愛の絆によって結ばれて、三位一体の神との愛の交わりに入るということなのです。イエス・キリストはこの可能性を実現するために一人ひとりのところに来られ、ご自分との交わりへと招いてくださいます。この招きに応えてイエスを受け入れるために、私たちは常に心の準備をしなければなりません。この準備とは、自分の生き方を正すこと、つまり、キリストの教えに逆らう振る舞いをやめるように努力しながら、キリスト自身の生き方を身に付けるように努めるということなのです。

恵み豊かな神よ、
御子を迎えに急ぐわたしたちが、
あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、
キリストに結ばれることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

12月3日 待降節第1主日B年 (マコ13,33-37)

「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」1コリ1,9

待降節を迎える私たちは、待降節第1主日に読まれる御言葉によって、キリスト者としての生き方の基本を思い起こします。キリスト者の生活は、旅に出かけている主人から仕事を与えられた僕たちや、目を覚ましているように命じられた門番の生活に似ています。

私たちが与えられた仕事というのは、自分の生活によって神の愛を現し、神の国の証しをすることなのです。また、門番のように目を覚ましている目的は、いつでもキリストご自身を受け入れることなのです。キリストが約束してくださったように、キリストが世の終わりには、誰でもはっきりと分かるような形で来られますが、その前に目を覚ましている人たちだけが分かるような方法で、私たちのところに来てくださいます。もし、私たちがキリストのことを忘れて、他のことに夢中になっていて、キリストが私たちのところにいらっしゃっているのに気が付かずに、キリストを受け入れないならば、与えられた仕事を果たすことはできません。なぜなら、私たちはキリストと結ばれてキリストと共に生きているときだけ、神の愛に生きることができますし、神の国を証しすることができるからです。

私たちは、いつもキリストを自分の人生に受け入れ、いつもキリストと共に生きることによって、与えられた使命を果たすことができるだけではなく、最高の賜物を受け入れるための準備をすることができます。この最高の賜物というのは、キリストとの完全な愛の交わりであります。同時にそれは、永遠に続く三位一体の神との愛の交わり、また、救われたすべての人々との愛の交わりでもあります。言い換えれば、この最高の賜物というのは、完成された神の国に受け入れられることなのです。

全能の、神である父よ、
救い主を待ち望む心を呼びさましてください。
わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、
キリストと結ばれて、永遠の国を受け継ぐことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。