第十講話 

罪人とは

PDF

日本語では、罪という言葉は、神との関係においてだけではなく、法律との関係においても使われています。法律を犯すことは、犯罪と言われていますし、人が犯罪を行ったことが裁判で証明されたら、この人は、有罪になって、容疑者から犯罪者となり、刑罰を受けます。

イエス・キリストが罪人を救うためにこの世に来られたと聞く、キリスト教を知らない日本人は、イエスは、犯罪者の刑罰を免除するために来たように理解している人もいるのではないでしょうか。このように考えている人は、自分が法律を犯したことがないし、犯罪者ではないので、イエスは自分と何の関係もないと思っても不思議ではないと思います。また、その人が犯罪人の刑罰を免除することは不正であると思っているならば、イエスのことに興味がないだけではなく、イエスが自分の正義感に逆らう活動をしたと思って、イエスに対して怒りを抱いたとしても、当然かもしれません。

実は、イエス・キリストは、何の犯罪を行わなかった人のためにも、一般的に善い人であると思われる人のためにも来てくださいました。言い換えれば、法律において無罪な人だけではなく、普段、正しい人と思われる人のためにも来てくださったのです。このことが分かるために、まず、聖書が使う「罪人」という言葉の意味、さらに「罪のゆるし」や「罪人の救い」のことを正しく理解する必要があると思います。

堕罪後の現状と人間の使命

人間の堕罪の物語の後の物語、つまり、カインがアベルを殺したこと(創4,1-26)、洪水(創6,1-9,28)とバベルの塔(創11,1-9)についての物語をもって聖書は、不正や他の悪に満ちた現実を描いています。私たちは今でもこの現実を体験していますので、世界が人間による悪で満たされているという事実について、誰をも納得させる必要がないと思いますが、殆ど誰も、私たちの世界がどうして、このようになっているかということが分からないようです。聖書は、堕罪の物語に続くこのような物語を通して、悪と苦しみに満たされているこの現状は、原罪の結果であるということを教えているわけです。

人間は、自分の心を正直に見つめると、自分自身には、悪への傾きがあるということを認めると思います。すなわち、自分にとって善を行うよりも、悪を行う方が簡単ですし、正しいことを選ぶよりも、愉快なことや快楽で、楽なこと、また、自分の利益になるものを選ぶのは簡単で、自然に感じる選択なのです。このような悪への傾きも、原罪の結果なのです。

人間の本性は、原罪によって深い傷を負わされても、今でもすべての人々は、人間の本性に従って善や幸福や愛を求めています。けれども、善を求めても、善とは何であるかよく分からないために、実際に悪を行うことがあります。 幸福を求めても、人間に相応しい幸福とは、何であるかということを知らないために、努力すればするほど、幸せになる代わりに、段々と不幸になっています。また、愛を求めても、愛が何であるか分からないために、愛するつもりで、相手を利用したりして益々自己中心になってしまうこともよくあります。

愛に生きるために創造された人間は、誰も愛することが出来ないならば、創造主である神が求めておられるような存在になっていないということになります。人間は、自分の本性に従って愛に生きる代わりに、その本性に逆らって自己中心に生きているのは、創造主であると同時に、愛の源である神と正しい関係に生きていないからです。考えてみれば、罪の本性は、堕罪の物語が示しているように創造主である神に反抗することですので、罪を犯すことによって人は、神との正しい関係を失います。そのため、自分の本姓と同時に、神の望みに敵わない存在になっている人間は、個人的に何も悪いことをしていなくても、聖書において罪人と呼ばれているわけです。

確かに、人間がこのように罪の状態に生まれてきたことは、一人ひとりの人の個人的な選択の結果でなければ、個人のせいでもありません。それは、最初の人たちが犯した罪の結果です。確かにこの結果は、苦しいことではありますが、同時に、一人ひとりの人にとって、神との正しい関係、つまり、神が求めておられる関係に戻り、再び、神が定めた人生の目的に向かって歩み始めるチャンスなのです。実は、このような堕罪後の状態から立ち直って、神が求めておられるような人間になるのは、この世に生まれてくる目的であり、一人ひとりの基本的な使命なのです。

個人が受ける社会の影響

最初の人々は、神との親しい交わりの内に生きていましたので、人間の心の望み、つまり、人間の本性に従って、人間らしく生きるために必要な知識を直接に神から学んでいました。神との親しい関係をもたずに生まれる私たちは、人生のことや価値観などを自分の家族や教育者や他の人から学び、また、文化や法律によって教えられます。

けれども、この教えは、必ずしも正しいものではありません。というのは、私たちに人生のことや価値観を教えている人たちは、善意の人ばかりではないし、嘘をつく人もいます。善意の人であっても、間違っていることがあります。それから、文化や法律は、限られた知識しかもっていない人々、しかも、少なくとも部分的に違っている情報や思想をもっている人々によって作られているからです。

それだけではなく、国民を支配する役割と同時に、教育する役割を果たしている法律は、国民の一人ひとりの善のみを求めて作られたものではありません。法律は、権力者にとって国民を管理しやすくするためとか、あるグループの権力や利益を確保するためや、国家のために役に立つ人を育てるために作られていますので、人間の本性に逆らうところがあって、人間らしく生きることを可能にすることや人間を幸福に導くことが出来ないだけではなく、人間らしく生きることと、幸せになることを妨げるようなところもあるのです。

考えてみれば、全ての人々が同じ本性を所有していても、生まれ育った家族、環境、文化、政治的な制度、また、受けた教育などによって、ずいぶん異なる価値観や人生観をもっているのは、そのためです。

自分の生き方に対する個人的な責任

人間は、ある社会の一員として生まれているため、その社会がもっている人生観や価値観を受け継ぐのは、当然です。けれども、子どもの時に間違ったことを教えられたから、人間らしく生きることも、愛することも、幸せになることも出来ないということは言えません。言い換えれば、自分の正しくない生き方を社会や他の人のせいにすることが出来ないということです。なぜなら、堕罪によって神との親しい交わりを失って、傷ついた本性を受け継いでも、人間は、今でも理性によって真理を知ることも、自由意志によって善を選ぶこともできるからです。人間に相応しい幸福や真の愛、それから善悪などとは、何であるかということを知るために自分に出来ることをするのが、一人ひとりの個人的な責任なのです。

目次に戻る