第十一講話 

個人的な罪とその結果

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堕罪の結果として人間の本性が傷ついても、基本的には変わりませんでした。すなわち、私たちも、最初の人間と同じように愛に生きるため、最終的に愛の完成によって、神と一体になるために生まれています。

また、最初の人と違って、私たちは神との親しい関係をもたずに生まれているために、神の望みをはっきりと知らなくても、神は創造のときに最初の人々を愛しておられたのと同じように、私たちを愛してくださり、私たちの存在の最も深いところに常におられ、私たち一人ひとりを愛の交わりへと招いてくださっています。

この招きこそ、人生の目的と正しい生き方を示しているので、この招きを受け入れ、それに応じるならば、誰でも、人間の本性に沿って生き、神との愛の交わりを深めながら、神が求めておられるような人間になることが出来るのです。

人間の良心とその教育

教会は、愛の交わりへの神の招きのことを、「良心」と呼びます。そして、「良心の声」、すなわち、神の招きを聞き取るための努力を「良心の教育」と呼びます。私たちは、「良心の声」を正しく聞き取ることが出来ずに、これを教育しなければならないのは、育ちや教育や他の様々な影響のために、神の望みと異なる確信をもっているからです。「良心の教育」として、私たちは人間の本性、つまり自分自身を知るように努めること、それから、普遍的な善と悪とは何であるか、愛とは何であるかということを知るように自分に可能なことをしなければなりません。

人間の望みや人間の働きとその結果から学んで、人間のことをある程度まで認識することは可能です。実際に、哲学者と呼ばれている人々は、組織的に人間のことや、人間が生きている現実について考察しています。特に、何の先入観や下心のない哲学者、例えば政治的な目的をもっていない、正直な哲学者の場合は、このような働きには、大きな意味があります。けれども、哲学の歴史と様々な哲学者のずいぶん異なる結論、多くの場合、互いに矛盾している結論や、常識的な事実を無視している結論を見ると、哲学はあまり頼りにならないし、混乱をもたらす恐れもあると思います。

良心を正しく育てる一番確実な方法は、イエス・キリストの教えと生き方を学ぶことです。なぜなら、イエス・キリストによって、創造主である神ご自身が私たちに正しい価値観と正しい人間観と同時に、はっきりとした形で、愛の交わりへの招きを表現してくださったからです。

個人的な罪

間違った教育を受けたために人間の本性とか、善悪などを正しく認識していないことや神を知らないことは、本人の過ちの結果でもなければ、個人的な責任でもありません。けれども、自分の良心を育てることが可能であっても、すなわち、正常に働く理性をもっていて、学ぶ自由と可能性があっても、良心を育てるために何もしていない、つまり、神や人生についての真理を追究していないならば、神や人間の本性に関して無知や過ちに留まることは、自分自身の責任となるのです。

そのために、この人は、わざと行う悪やわざと怠る善に関してだけではなく、無知や間違った認識のせいで行う悪や怠る善に対しても、責任があります。悪を行い、善を怠ることは、神や他の人に対する愛ではなく、自分の利益になると思うようなものを選ぶことですので、この選択こそ、この人の個人的な罪となるのです。

罪の働きとその結果

1.人間が受ける害

罪とは、神の望みと同時に人間の本性に逆らう言葉や、行いや、望みですから、罪を犯すことによって人間は、たとえそれが罪であるということが分からなくても、何らかの害を受けます。しかし、多くの場合、この害は、例えば火傷と違って、すぐには見えないし、感じないようなことです。また、罪を犯した人は、何の痛みも感じないだけではなく、安心感や満足感や喜びなどのような愉快な感情を抱くことがあります。そのために、罪を犯しても、「何も悪いことが起こらなかった」とか、「罰せられなかった」と思って、これから気楽に罪を犯してもいいというような結論を出す人が大勢います。

ときに、罪がもたらした害に気が付いても、それは、罪となっている自分の行動と何の関連も見出さないことも多いのです。確かに、それによって罪を気楽に犯し続けることができますが、自分自身にますます大きな害を与え続けるのです。

  1. 良心(価値観)の悪化

自分が罪を犯した経験、少なくとも悪いと思ったことをした経験を注意深く見つめてみたら、必ず生じる結果を見出すことが出来るはずです。人間は何等かの行いが悪であると思っているならば、それをするように誰かに誘(さそ)われるとき、それとも、自分がしたいと感じているときに、この行動に関して違和感や抵抗、または、恐れを感じます。この違和感や抵抗や恐れは、罪を犯さないように注意する「良心の声」として考えることが出来ます。人間は、この「良心の声」を無視して、悪いと思うことをするならば、罪悪感を覚えます。この罪悪感も、悪を行うのをやめさせようとする良心の働きとして考えられるのです。

けれども、そのような良心の働きを無視して、自分の行動を改めずに同じことを再びしようとするときには、いわゆる「良心の声」が弱くなり、後の罪悪感も弱まります。やがて、元々悪だと思ったことをするのは、平気になり、罪を犯す前も後も何も感じなくなります。このように、私たちは、そのつもりがなくても、実際に自分の良心、つまり自分の価値観を変えていくわけです。

もし、自分の元々の確信が正しかったならば、つまり、行ったことは本当に悪であったならば、自分の価値観は、段々と正しくないものになりますし、善を行うつもりであっても、悪を行うことが頻繁になっていきます。

  1. 理性と意志の弱化

自分の経験から、罪がもたらすもう一つの結果が分かるはずです。それは、罪を犯す人間の理性が段々と濁っていき、善と悪を見分けることが難しくなるということです。それから、罪を犯すことによって人間の意志が段々と弱くなるために、悪を避けることも、善を行うことも難しくなるという結果も分かるはずです。このように、罪の結果として、人間の本性は、ますます深く傷つけられますので、それに敵うような生き方は、益々難しくなるということです。

  1. 依存状態

「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハ8,34-35)ということをイエス・キリストが教えてくださいました。この教えと多くの人の経験に基づいてカトリック教会が次のように教えています。「すべての罪は被造物へのよこしまな愛着を起こさせます」(カトリック教会カテキズム1472)。それは、罪を犯すことによって人間が、罪の対象となっていたものとの依存状態に入るということです。

この状態に入ると、元々自分がしたくないと思ったようなことを、平気にするようになるだけではなく、元々やる必要のなかったようなことをやらずに生きることができなくなるということです。また、罪となっている行動によって自分自身や、自分にとって大切な人々に、どれほど大きな害が与えられているかということがはっきりと見えるようになっても、この行動をやめることが出来ないということ、つまり、この罪に対して自分の意志が弱くなっていくだけではなく、この罪の奴隷になって、自由意志を失ってしまうということなのです。

  1. 霊的な死

罪の奴隷になった人は、神や他の人の助けを受けずに、死に至るまでそのまま生きるならば、つまり、最後まで罪に留まるならば、神が求めるような人間になるチャンスを無駄にしてしまい、結果的に、サタンと同じように神の望みに敵わない存在、自分の本性に矛盾している存在として永遠に生きる意味での「霊的な死」を向かえる恐れがあります。その結果は、最終的に、聖パウロが教えている通りに、「罪が支払う報酬は死」(ロマ6,23)なのです。

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