第十八講話

イエス・キリストの洗礼

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洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前、イエス・キリストはナザレという小さな山間の町で凡そ30年間暮らしていました。イエスは、法定の父であった聖ヨゼフと同じように大工として働いていました。おそらく、イエスの人生は安定していて静かなものでした。彼の生活は、少なくとも表面的に、ナザレの他の住民の生活とそれほど異なっていませんでした。

しかし、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、この安定した生活は終わりました。イエスはナザレに戻りませんでした。家族生活や仕事にも戻らずに、パレスチナを歩き回り、神の国の到来を宣言し始めました。人々はイエスに、これまで見たことのない奇跡を行う力と、優れた知恵があることに気が付きました。

洗礼者ヨハネから受けた洗礼がイエスにとって何であったか、そしてこの洗礼を受けてから人生が大きく変わった理由を理解するには、まず洗礼者ヨハネが行われた洗礼の意義を理解する必要があると思います。

ユダヤ教における洗礼

ユダヤ教では、人や物を洗うことによって、人や物を清めたり、それを神に奉献にしたりするさまざまな儀式がありました。 改宗者のための一度の清めの式、すなわち洗礼式もありました。この洗礼式は割礼を補い、異邦人をイスラエルのメンバーにしました。 改宗者にとって、洗礼を受けるということは、以前に偶像と接したことから生じる汚れを洗い流すこと、そして法律に従って生きる義務を受け入れることを意味しました。

ユダヤ教には、内部の浄化を深めることや、神との交わりを深めること、すなわち、霊的な成長の外部のしるしとして、体に水を注いだり、体を水に浸したりするという繰り返しの儀式を行ったグループもありました。この場合、体を洗うことは、正義の実践を通して魂を清めることが先行する場合にのみ意味のあるものでした。言い換えれば、この儀式は絶えざる回心を前提したのです。

洗礼者ヨハネの洗礼

洗礼者ヨハネの洗礼は、エッセネ派が行った洗礼式に最も近いものでした。しかし、それは実践と意義の両方の点でこの儀式とは異なるところがありました。

確かに、ヨハネの手から洗礼を受ける前に、罪の告白と自分の生き方を改める決断、つまり神の意志に従って回心して正義にかなった人生を始めるという決断が必要でした。けれども、洗礼の目的は自分の魂の状態を表すことではなく、メシアの到来に備えることでした。

洗礼者ヨハネは、説教の中でメシアはまもなく到来して、裁きを行うことを力強く話しました。この裁きによって正しく生きた人々が報いを与えられる、そして罪に生きていた人々が罰を与えられるとヨハネが教えていました(ルカ 3,7-9.17)。

洗礼者ヨハネはまた、彼の後に来る方は自分よりも偉大であると宣言しました。水だけで洗礼を授けたヨハネとは違って、メシアは聖霊と火で洗礼を授けると宣べました(ルカ 3,16)。

ヨハネの働きは、人々がメシアの到来に備えるための準備にすぎませんでした。彼は、説教を通して人々の心に、過去に犯した罪に対する痛悔を起こし、悔い改める必要性を意識させることでした。洗礼は、この痛悔と悔い改めの意志の外面的な表現でした。実は、これから到来するメシアだけが人々を神と和解させ、彼らの心を神の命と愛で満たし、そして彼らが正しく生きたい、つまり神の意志に適う生き方したいという願望の実現を可能にすることが出来たのです。

このように人生を変えるメシアの働きをヨハネが「聖霊と火による洗礼」と呼び(マタ3,11; ルカ3,16)、メシア自身を「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1,29)と呼んだのです。

なぜ、イエスが洗礼者ヨハネの洗礼を受けたのでしょうか

聖パウロ(2コリ5,21)と聖ペテロ(1ペト2,22)の教えによると、イエスは一度も罪を犯したことはありませんでした。さらに、彼自身がメシアでした。従って、イエスは他の人々と違って、メシアの到来のために罪人の準備であった洗礼を受ける必要は全くありませんでした。

おそらく、洗礼者ヨハネはそう思ったから、イエスが近づいているのを見たとき、大いに驚いて、イエスを止めようとしました。ヨハネを納得させるためにイエスはこう言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタ3,15)。

イエスが語る「正しいこと」とは、父なる神の御心を行うことを意味します。イエスが罪人の真ん中に入れられて、彼らのように悔い改めの洗礼を受けたのは、これが自分に対する神の意志であると確信したからです。

神の子の使命

父なる神が御独り子を救い主として遣わされたのは、すべての人を罪の束縛から解放し、私たちが神の愛に愛をもって応えられるようにしたかったからです。神は、イエスが罪人の間に住み、神の無条件の愛を示すことによって、この働きを完了することを望んでおられました。なぜなら、こうすることによってのみ、神から遠ざかっていた人々を神のもとに引き戻すことができたからです。

イエスはまた、人類を神と和解させ、すべての人間が神と一致することを可能にするために、神がすべての人間から望んでおられる完全な愛を神にささげる使命を与えられたのです。

洗礼者ヨハネの周りに集まった罪人の群衆に入り、回心の洗礼を受けることによって、イエスはこのメシアの使命を受け入れたわけです。

ヤーヴェの苦しむ僕

メシアの使命を受け入れることはイエスにとって決して容易ではありませんでした。なぜなら、メシアについての旧約聖書の預言を知っていたからです。メシアの受難と死は、詩篇の書(詩篇22,1-21)と預言者イザヤの書(イザ 50,6-7; 52,14; 53,3)の両方で驚くほど詳しく描かれています。イエスは、ご自分を待っている苦しみを十分に認識して、それを受け入れる覚悟をもって、メシアの使命を受け入れたのです。

洗礼を受けた時から、父なる神の御心に従って、イエスは常に罪人の間に生きていました。確かに、イエス様の活動に対する反応で彼を喜ばせた人たちがいました。しかし、罪人の中で生きることは、まず第一に、多くの苦しみ、そして最終的にははりつけと死を意味しました。罪人がイエスに大きな苦しみを与えたにもかかわらず、彼は最後まで罪人の間に生きていました。これによってこそイエスがご自分の使命を果たし、私たちのすべての罪を贖ってくださったのです。

開かれた天

聖マタイは、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた」(マタ 3,16) と伝えています。「天の開き」といしるしを理解するために、人間が生きている現状、とくに神との関係の状態を思い起こす必要があります。

人間が創造された後に、神との親しい関係に生きていました。けれども、罪を犯すことによって、この関係を破り、神から離れてしまい、神との親しい交わりに戻ることは不可能になりました。たとえ、帰り道を知らされても、その道をたどろうと努力したとしても、神に戻ることは不可能でした。この状況は「天の門が閉ざされた」という言葉で表現されています。

イエス・キリストは、ご自分の生涯、特に受難と十字架上の死によって、私たちのすべての罪を贖い、私たちを神と和解させ、神との愛の交わりに生きることが再び可能になりました。イエスの洗礼に伴う「天の開き」(ルカ 3,21)は、イエスの救いの業の実を象徴的に表すものです。

イエス・キリストは、私たちのために天を開いてくださっただけではなく、ご自身がこの「天の開き」であるとも言えます。なぜなら、神の子の受肉を通して、イエス・キリストにおいて人間性は神性と結びついており、イエスの最後までの忠実さと十字架上の完全ないけにえを捧げたことを通して、この絆は永遠のものとして確立されたからです。今では、すべての人がイエス・キリストと結合することによって三位一体の神と結合することができます。言い換えれば、イエス・キリストにおいて、私たちは神に近づくことができるということです。

神の愛する子

聖マタイが伝えているように、天が開かれた後に、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタ3,17)という声天から聞かれました。この声は、父なる神との関係におけるイエスの正体を公に明らかにしました。同時に、この声は、イエスの内なる意識を確認しました。この二番目の目的を強調するために、聖マルコと聖ルカの両方が、述べられた言葉をイエスに直接宛てた言葉として書き記しました。すなわち、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マコ1,11; ルカ3,22)と。

旧約聖書から、イエスはメシアの受難と十字架上の死を描く預言だけでなく、彼の復活を予告した預言も学びました(詩22,23; イザ53,11; 詩16,9; ホゼ5,15; 6,3; 詩 118,22)。

間違いなく、ご自分が全能の神の愛する子であるという認識と、父なる神が愛する子を復活させる約束であった復活の預言の知識は、イエスに大きな希望を与えました。この希望は、甚大な苦しみと残酷な死の見通しが引き起した恐れよりも、大きくて、強いものでした。そのために、父なる神へのイエスの愛だけではなく、復活の希望も、イエスがメシアの使命を受け入れ、それを完全に遂行することを可能にする力の源となっていたのです。

聖霊による油注

旧約聖書の時代、神が誰かを王または祭司に召されたとき、神の選びを伝え、この人の頭の上に油を注くために預言者を送りました。油を注ぐのは、神からの使命のためにのこの人が聖別されたことと、その使命を果たすために必要な力を与えられたことを象徴的に表すものでした。その時、油は聖霊の象徴となっていました。

確かに、イエスは洗礼を受けたときに、油を注がれませんでしたが、聖霊ご自身が目に見える形で天から降りてきて、イエスの上にとどまりました。それは、イエスが聖霊の象徴である油を注ぐことによってではなく、聖霊を受けることによってメシアの使命のために聖別されたということです。

コルネリウスの家族への説教の中で聖ペテロはこの出来事とその結果について次のように述べました。「ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(使10,38)。

イエスにとって、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことは、メシアの使命を受け入れると同時に、公式に派遣されること、さらに、メシアとして公の活動を開始することでした。そのためにこそ、洗礼を受けた後にイエス様の人生がそんなに大きく変わったわけです。

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