第五講話

聖書の特徴

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聖書を正しく理解し、聖書の言葉によって生かされるためには、聖書の最も根本的な特徴、つまり、聖書は、神の作品であると同時に、人間の作品でもあるということを常に意識しなければなりません。

神の作品

聖書全体は、凡そ2000年の間、非常に多くの人がかかわった過程の結果、しかも、複数の言語(ヘブライ語、アラム語、ギリシア語)で、様々な所で、様々な政治や経済的状況の中で書かれたものです。また、聖書には、歴史的な物語やたとえ話、預言的や黙示的や詩的な表現形式とその他の文学類型があります。

それほど多くの相違をもっている文書が、なぜ、一つの聖書になっているのでしょうか。それは、聖書に含まれているすべての文書に一つの重要な共通点があるからです。その共通点とは、共通の作者であること、すなわち、神ご自身が作者であるということです。実に、聖書が他のすべての書物と異なる聖なる書であるのは、そのためなのです。

神が聖書の作者であると言っても、神ご自身が直接、それらの文書を書かれたということではありません。神は、人間である聖書記者に霊感を授けたことによって、その霊感が彼らの内で、また彼らによって働く間に、彼ら自身によって神が望むことをすべて書き記しました。

もちろん、神は、文書を書いた人を通して働かれただけではなく、口頭で伝承を伝えた人々、また、文章を合併したり、それを編集したりした人々、すなわち、聖書の作成過程に関わったすべての人々を通して働かれたのです。

人間の作品

神は聖書の真の作者であっても、唯一の作者ではありません。

というのは、実際に聖書の言葉を書いた人は、秘書のように、ただ、言われた通りにその言葉を書き留めたのではなく、神から受けた啓示を、個々の才能や能力に応じて自分の言葉で、自分が選んだ文学類型をもって文書を書いたのです。ですから、人間である聖書記者も真の作者であると言えるわけです。

したがって、聖書の言葉には、神が伝えたいと望まれたことだけではなく、聖書記者の性格や趣味、彼らの知識や世界観、さらには、当時の常識や、考え方なども含まれているわけです。

人間の言葉となられた神のことば

神の作品である聖書が、同時に人間の作品でもあるとは、大きな神秘です。この神秘を信じることのできない人々は、聖書に関するいろいろな間違った考え方をもっています。そのうち、二つの極端的な考え方があります。一つは、聖書は、他の本よりも優れたものであっても、他の本と同じように、ただ人間の作者によって書かれた本で、人間の知恵を伝えている本であるという考え方です。もう一つは、人間の作者は、神から言われた言葉を、何も考えずに、機械的に書き留めただけですから、真の作者ではないという考え方です。この考え方によると、神が聖書の唯一の作者であって、聖書に書いてあるすべての言葉は、神が実際に語った言葉で、文字通りに神の言葉であるということです。

実際に、教会が教えている通り、神の作品であると同時に、人間の作品である聖書において「神のことばは人間の言語で表現されて、人間のことばと同じようなものにされた」(『啓示憲章』13)ということです。要するに、完全で、無限の神のことばは、不完全で、有限の人間の言葉となったということです。聖書の言葉は、真の人間の言葉でありながらも、他の人間の言葉と一つ異なることがあります。それは、他の人間の言葉と違って、この言葉に誤りがないということです。つまり、人間の言葉となった神のことばは、真理を誤ることなく伝えているということです。

分かりやすく言えば、聖書が神の作品であるとは、聖書が伝えている真理が、神によって決められたことということです。また、人間の作品でもあるとは、この真理を伝える方法が、人間によって決められたということです。

救いのための真理

聖書を正しく理解するためには、少なくとも、聖書に対して不当な期待をもたないために、聖書が誤りなく伝えている真理の性格を知らなければなりません。それは、私たちが、救いのために必要な真理、しかも、普遍的な真理、つまり、どんな時代においても、どんな文化の中でも、どんな人にとっても有効な真理ということなのです。

救いのために必要な真理は、どんなことなのでしょうか。まず、それは、天文学的や物理学的真理、医学的真理、あるいは、歴史的真理、つまり科学的な真理ではないということが言えます。なぜなら、そのような真理を知ることは大切であっても、救いの恵みを受けるためには十分ではないし、必要ではないからです。世界の構成や人間の体の構成を知っていても、人生の目的やその意義、また、正しい生き方を知らない可能性があります。実際に、優れた学歴のある人々の中に、正しく生きていない人が少なくないでしょう。逆に、難しい学問を知らなくても、正しく、つまり、人間らしく生きることができます。実際に、無学な人々の中に、思いやりの心をもって、正しく生きている人々も大勢いるのです。

私たちが聖書を読むのは、創造主である神が人間のために定めた目的に向かって歩むために必要な真理、つまり、神の本質と人間の本質、人生の意義、真の善と真の悪についての真理を知るためだということです。

生きた神のことば

キリスト者にとって、聖書は、神のことばとして、非常に尊い書物ですが、キリスト教の信仰は「書物の宗教」ではありません。確かに、キリスト教は神のことばの宗教であると言えますが、そのことばとは、聖書に書いてある文字ではなく、人間となられた神の御独り子、イエス・キリストのことです。実際に、キリスト者にとって、聖書を読む最終的な目的とは、本を知ることではなく、イエス・キリストを知ることなのです。というのは、人生の目的とその目的に向かっている生き方を知っていても、また、言い換えれば、救いへの道を知っていても、イエス・キリストを知らなければ、誰もこの道を歩むことが出来ないし、救いにあずかることもできないのです。

神のことばである聖書を通して、救いのために必要な真理とイエス・キリストを知ることが出来るために、聖書の最も根本的な特徴、つまり、聖書は、神の作品であると同時に、人間の作品でもあるという特徴を常に意識して、聖書解釈の基準を守らなければなりません。

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