第六講話

聖書の解釈

PDF

聖書において、神のことばは、人間の言葉になったわけですから、私たちは、神のことば、つまり、神が私たちに伝えようとしておられる真理を理解するために、まず、人間の言葉、つまり、聖書記者たちが表現しようとしたことを理解する必要があります。

神が伝えようとしておられることは、「聖書の霊的な意味」と呼ばれています。そして、人間が表現しようとしていることは、「聖書の文字どおりの意味」と呼ばれています。私たちが聖書を読む目的は、聖書の霊的な意味を知ることですが、この意味を見極めるために、まず、聖書の文字どおりの意味を理解する必要があるということになります。

聖書の文字どおりの意味

考えて見れば、聖書記者たちが表現しようとしたことを理解するために、まず、凡そ3000年前のヘブライ語と2000年前のギリシャ語を知らなければなりません。それから、各々文書が書かれた時代の状況、たとえば、この時代に生きていた人々の考え方、表現の仕方、言葉の理解などをも知らなければなりません。勿論、聖書の一般読者には、それが不可能です。

幸いに、古代の言語や文化を専門的に研究している学者がいて、聖書を現代の言語に翻訳したり、一般の人が聖書に書いてあることを理解するために、聖書辞典や注解書などを編集したりします。

私たちは、聖書の文字どおりの意味を理解するために、学者たちが編集した聖書辞典や注解書などを利用して、聖書記者が用いた言葉や当時の状況について、少なくともある程度まで勉強する必要があります。

また、完全な翻訳は、不可能であるということを意識しながら、自分に分かる言語のいろいろな翻訳を読み、それを比較することによって、聖書に使われている言葉や表現の元々の意味の理解を深めることも大切です。

聖書の霊的な意味

聖書の文字どおりの意味を見出すために、ある程度までの専門的な知識が必要ですが、聖書の霊的な意味を見出すために必要なのは、信仰です。つまり、聖書の言葉を通して本当に神が語ってくださるということを信じると同時に、神のことばを理解したい、この言葉に従いたいという望みをもつことが必要です。言い換えれば、聖書の霊的な意味を見出すために、聖書の作成に関わったすべての人々を導いてくださった聖霊に照らされて、聖霊の導きに従って、聖書を読み、解釈しなければなりません。そのために、聖書を読む前に、聖霊の照らしと聖霊の導きを願う祈りが非常に大切になるのです。

けれども、人が以上の意味で信仰をもって聖書を読んでいるかと言って、この人のすべての解釈は、神のことばの真の意味と一致しているとは限りません。実際に、多くの場合それは、人間の思いや望みを表す、人間的な考察(こうさつ)の結論にすぎないのです。

そのような過ちを避けて、本当に聖霊の導きに従って聖書を読み、それを正しく解釈するためには、教会は私たちに、三つの規則、ないし基準を与えています。(カテキズム112-114、『啓示憲章』12」)。

第1基準は、聖書全体の内容と統一性に特別な注意を払うこと、

第2基準は、教会の生きた聖伝全体に従って聖書を読むこと、

第3基準は、教会の教導権を尊重し、教会の正式的な教えに沿って聖書を解釈すること

第1基準 聖書全体の内容と統一性に特別な注意を払う

人間と違って、神はいつも真理を語っておられます。そのために、ときに矛盾している人間の言葉と違って、神のことばは、絶対に矛盾していません。

聖書全体は、多くの書から成り立っていても、一人の作者である神ご自身によって作成された一つの書物ですし、誤ることなく神が教えられた真理を伝えていますので、聖書に含まれているすべての書に

おいて神のことばは絶対に矛盾することなく、完全に統一しています。

私たちは、その意味での聖書全体の統一性を常に意識して、聖書の別々の個所から互いに矛盾しているような結論を出した場合、両方ともが真理であるのことは、ありえないわけですので、その内の少なくとも一つの結論が間違っている(両方とも、間違っている可能性もある)ということを認めなければなりません。

聖書全体の内容は繋がっていますし、教えは統一していますから、異なる個所から読み取った様々なメッセージの関連を見出し、それを一つの大きなメッセージに繋げること、あるいは、一つの個所から読み取った神のことばによって、他の個所を照らし、その理解を深めることもあります。

第2基準 教会の生きた聖伝全体に従って聖書を読む

教会の礎として選ばれた聖ペトロは、聖書について次のように語ります。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」(二ペト1,20-21)。

「自分勝手に解釈する」とは、一人で聖書を読んだり、個人的に解釈したりすることではありません。それは、イエス・キリストの証人であり、イエスご自身からイエスの名によって教える権威を授けられた使徒たちの教えを無視すること、また、彼らの教えに逆らうような解釈をすることです。

使徒たちは、イエスから与えられた使命を果たし、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、説教したり、旧約聖書に基づいて他のユダヤ人と論じ合ったりしただけではなく、自分たちの生き方、多くの奇跡を含む宣教活動、回心した人々に洗礼を授けること、キリスト者の共同体とその組織を作ること、また、他のキリスト者と共に祈り、貧しい人々を助け、共同体の生活によって、言葉のみで伝えることのできないことを伝えたのです。教会はこのように文書以外の形で使徒たちから受け継がれた教えを聖伝、つまり聖なる伝承と呼びます。

聖パウロは、キリスト者たちに、手紙によって伝えた教えだけではなく、口頭で、また、自分の生き方によって伝えた教えも固く守るように呼び掛けていました(二テサ2,15、一コリ11,1)。そのとおりに、教会は、2000年前から、聖ペトロと聖パウロ、また他の使徒たちから、様々な方法によって伝えられた教えを、その教えと生活において保ち、それを次の世代に伝えてきましたし、これからも、世の終わりまで伝え続けるのです(カテキズム78、『啓示憲章』8)。

聖伝に従って聖書を読むとは、昔から伝わってきた教えをそのまま繰り返すのではなく、聖伝に逆らわないように注意しながら、それを自分の現状に適用したり、現代の人に分かりやすい言葉で表現したり、その理解をさらに深めたりするということなのです。

第3基準 教会の教導権を尊重し、教会の正式的な教えに沿って聖書を解釈すること

教会が聖書と聖伝という形において、使徒たちから受けついだ信仰の遺産を保つこと、それを説明すること、また、それを広めることは、使徒たちの後継者である司教たちの務めです。聖ペトロの後継者であるローマの司教、すなわち教皇様と一致している司教たちのこのような役目を、教会の教導権と呼びます。

聖伝に従って聖書を読んで、使徒たちが伝えた教えに忠実に聖書を解釈したいなら、自分の考えよりも、教導権による教会の正式な教えを優先しなければなりません。つまり、自分の解釈が、教会の教えに矛盾するならば、間違っているのは、教会ではなく、自分の方であるということを率直に認め、間違った解釈を手放すことです。確かに、聖書を読む人は、教会の教えによって制限(せいげん)されていると言えますが、それによってこそ、間違った解釈から守られているということなのです。

使徒たちの教えを伝え、それを正しく説明し、解釈している教会の教えに基づいて聖書を読むならば、私たちは間違った解釈を避けることができるばかりではなく、その教えを知らずに読んでいたときには全然分からなかった言葉の意味が分かり、また、部分的にしか理解していなかった個所をもっと深く理解することができるのです。そのために、聖書を個人的に読む前に、教会の教えを知っておいた方が、賢いと思います。

目次に戻る