第七講話 

天地の創造

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天地創造の物語(創世記1,1-25)は、世界の創造の過程を描いているように見えますが、聖書全体と同じように、この物語が書かれたのは、私たちに科学的な真理を教えるためではなく、救いのために必要な真理を教えるために描かれました。

具体的に言えば、天地創造の物語は、世界が出来た過程や世界の構造について教えるのではなく、人間の最も根本的な問い、すなわち、世界と人間の起原(きげん)とその目的、世界と人間の存在の意義に関する問いに答えているのです。

存在しているすべてのものは、神によって創造されたもの

まず「天地」という表現は、存在している、神以外のすべてのもの、つまり、「天」と言われている霊的な世界と「地」と言われている物質的な世界を表しています。天地創造の物語の基本的なメッセージとは、世界、つまり存在しているすべてのものは、神によって創造されたということです。

神の創造のわざを理解するために、そのわざの特徴と人間の物作りの特徴を比較してみたいと思います。

神の創造わざの特徴

人間は、何かを作るために、材料を必要としていますが、神は、「存在していないものを呼び出して、存在させる」(ロマ4,17)。すなわち、神は、何かを造るために、何の材料も使いません。「ことばを語る」だけで、神が求めているものが存在するようになるのです。

人間の作者は、自分の作品と異なる存在であるという意味で自分の作品を超越しています。同じように、神は、創造してくださった世界を超越しています。逆に言えば、被造物は創造主の一部ではなく、神と別の存在です。

出来上がった作品は、その作者と別の存在であるだけではなく、その存在は作者の意志や意識、また、存在に依存していません。というのは、作者は、自分の作品のことを嫌いになっても、それを忘れても、死ぬことによって存在しなくなっても、作品は、破壊されない限り、存在し続けます。人間の作品と違って、無から引き出された被造物は、神の存在に預かっています。そのために、創造主に完全に依存しています。存在しているすべてのものは、神によって求められ、常に支えられているから、存在し続けているのです。この意味で、神は、創造してくださった世界を超越しておられながらも、創造してくださったものの存在を常に保つために、被造物の最も深いところに内在しておられます。

人間が作ったものは、その人の想像とか、意志や思想などを表しているし、その作品に作者が与えた目的があります。けれども、作者が自分の作品を手放したら、その作品は、作者によって与えられた目的を果たさない可能性も、他の人によって全く違う目的のために使われる可能性もあります。

神が創造してくださった被造物も、その「作者」である神の意志や望みを表しています。けれども、神は、ご自分の「作品」を手放すことがありませんし、その存在を支えるだけではなく、それを創造の時に与えた目的に導いてくださいます。そのために、神が創造してくださった世界は、必ずその目的に辿り着くのです。このような神の働きは、神の支配や神の摂理と呼ばれます。

創造されたすべてのものは、善いもの

天地創造の物語のもう一つの大切なメッセージとは、創造されたすべてのものは、神によって善いものとして創造されたということです。

けれども、世界は、善いものとして創造されても、完成したものとして造られたものではありません。この世界は、ある意味で、教会が教えている通りに、「完成に『向かう途上』にあるものとして造られました」(カトリク教会カテキズム 302)。この完成は、神が定めた世界の目的であると言えます。

世界は、神によって善いものとして創造されたにもかかわらず、私たちが毎日のように様々な悪を体験しているのは、事実です。ですから、聖書の教えを受け入れるためには、なぜこの世に悪が存在しているかということを理解する必要があります。ある意味で、聖書全体がこのような問題について語っていますが、天地創造の物語の一部である人間創造の物語は、悪の起源を示しています。

悪の存在の理由について話す前に、まず人間創造の物語が伝えている基本的なメッセージを紹介したいと思います。

人間の創造 (創1,26-31;創2,4-25)

創世記には、人間の創造について語る二つの物語があります。この物語は、人間の創造について全く違うことを語っていますので、両方とも、実際に起こったことを描いているとは、言えないと思います。言い換えれば、この物語の文字通りの意味は、互いに矛盾しているということです。けれども、この物語の霊的な意味、つまりこの物語が伝えている真理を見出すと、その真理は矛盾していないだけではなく、互いに補い合い、人間の本性、また、人間の存在の意義とその目的について、統一したことを教えているということが分かります。

創世記の第1章において、神は非常に不思議なことを語ります。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創1,26)ということです。また、第2章は、人間の創造を次のように描いています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創2,7)。

「土の塵」が表しているのは、人間は、この世のものであるということです。「命の息吹」が表しているのは、人間は、この世のものではない、何か神聖なものをもっているということです。この「神聖な何か」とは、人間の肉体を生かす霊的な次元、人間の内部の最も深いもの、人間を特別に神の似姿とするものです。私たちは、それを霊的な魂、つまり、霊魂と呼びます。

実は、人間の肉体と霊魂の結合は、人間の本性となっています。したがって、神が創造してくださった世界において、肉体的な存在であると同時に霊的な存在である人間が、自分の本性の中に、霊的な世界と物質的な世界を一つに結ぶ唯一の存在であるということになるのです。

霊魂の働き

他の物質的な被造物に見られない人間の能力と他の特徴は、人間の霊的な次元や、霊魂の働きを表しています。

それは、まず、知能と理性、つまり、論理的に考え、物事の本質やその意義を知る力です。

それらは、自己意識、つまり、自分の存在を自覚し、自分を知る力です。

人間には、動物と同じように本能がありますが、動物とは違って人間は、自分の本能の虜になっていません。というのは、自分の内から来る「刺激」に従うか、それに従わないか、自由に選択することができるからです。この可能性を自由意志と言います。

理性によって善悪を知り、自由意志によってどちらかを選ぶことの出来る人間の行動には責任があると同時に、道徳的や倫理的な価値があります。理性と自由意志のために人間は、愛することも、罪を犯すことも出来る、物質的な被造物の中で唯一の存在なのです。

神に象って、神の姿として創造されて、以上の特徴をもっている人間は、神ご自身と同じように、「何か」ではなく、「誰か」であり、つまり、ただの「物」や「理性的な動物」ではなく、神と同じように人格的な存在、また、ペルソナなのです。

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