第八講話 

人間創造の目的

PDF

創世記の第二章の人間創造の物語では、神が人間を創造してくださったときには、「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった」(創 2,4)のですが、神は、「東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ」(創 2,8-9)ました。

この物語によって聖書が教えているのは、全世界は、人間のための神の賜物であるということです。この賜物は、人間に対する神の愛の表現です。

時にエデンの園は「楽園」と呼ばれています。おそらくそのために、エデンの園で人間は楽しく遊んで生きていたと考えている人がいるのではないかと思います。けれども、聖書を注意深く読むと、そのような考え方は間違っているということが分かります。というのは、聖書には、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創 2,15)とはっきり書いてありますので、神が人間をエデンの園に住まわせたのは、遊ぶためではなく、働くためなのです。

第一章の物語は、別の言葉を使っていますが、同じように人間の仕事について語ります。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」(創 1,28)。この言葉に基づいて、人間が地球を自分たちの利益のために、好き勝手に利用する許可をもらったと考えている人がいるようですが、この考え方は、全く間違っています。実は、地を従わせることと生き物を支配することは、園を守ることと、それを耕すことと同じことを意味しています。すなわち、人間が神から、世界の完成のために神に協力する使命を与えられたということです。

創造のわざの完成への人間の協力

確かに、全能の神が世界を完成させるために、被造物の一部で、神と比較したら無に等しい存在である人間の協力を求めるのは、実に不思議なことです。けれども、完成した世界の在り方、その本質が分かると、神が人間の協力を求めておられるわけも分かると思います。

実は、イエス・キリストが宣べた神の国が、創造のわざの完成で、世界の完全な状態なのです。神の国についてより詳しく話す機会が沢山ありますが、簡単に言えば神の国とは、神の愛を受け、愛をもって神の愛に応えた人々と神との完全な愛の交わりを実現した状態のことです。この完全な愛の交わりは、人間が創造された目的であって、人間にとって最高の幸福の状態です。

神の国の完成は、世界の完成にもなります。ですから、人間は、世界を発達させるということによってではなく、愛に生き、愛において成長することによって人生の目的に近づくと同時に、創造のわざの完成に協力するわけです。世界の発達のため、また、世界をより良いところにするために働くことは、その働きが愛の表現であるときだけ創造のわざの完成に協力することになるということが言えると思います。

人間は、そのような意味での人生の目的に向かって生き、それに辿り着き、永遠に神との愛の交わりに生きるために、神にかたどって創造され、理性と自由意志と共に、愛する能力を与えられたわけです。

神と人間の相互の愛が完成された世界の本質になっているからこそ、神は、全能の方であっても、世界を完成させるために人間の協力を必要とされています。なぜなら、愛は自由な選択に基づくものであるため、神さえも人間に愛させることが出来ず、人間が自ら神の愛に愛をもって応えることを自由に選ばなければならないからです。

創世記の人間創造の物語は、そこまで詳しく教えませんが、この物語においてもこの真理をある程度まで見出すことが出来ます。

神との完全な愛も交わりへの一般的な道

創世記の第1章において、神はご自分に象って人間を男と女に創造されたと言われることによって、男女の平等と男女の同じ尊厳が表現されています。第2章の物語では、まず男が創造されてから、男から女が創造されたということが言われています。確かに、話は異なっていますが、この物語は、第一章の物語が伝えている真理に矛盾するのではなく、人間が男性と女性として創造された理由を説明しているのです。

この物語において神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創2,18)と語っています。

「人が独りでいるのは良くない」という言葉の意味は、人間は、独りで生きているときに、孤独で、不幸であるから良くないということではなく、人間が自分のためにのみ、つまり自己中心的に生きるのが良くないということです。というのは、神との完全な愛の交わりに生きるために創造された人間は、愛に生きるとき、つまり誰かのために生きているときにだけ、神が定めた目的に向かって歩み、人間らしく生きているからです。

人間に「合う助ける者」とは、普段の仕事を助ける動物や人間のことではなく、愛の対象になれるもの、つまり、愛の対象になることによって、愛に生きる使命を果たすのを可能にするものという意味です。

神は、アダムの前にいろいろな生きものを連れてきてくださいましたが、人間は、「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(創2,20)、つまり、この生き物の中には、普段の仕事を助けることの出来るものがあっても、愛の対象になれるものがなかったという意味です。

自分のあばら骨で造り上げられた女性を見たアダムの口に、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」(創2,23)という言葉を入れることによって聖書は、男女の平等と同じ尊厳を再び教えるだけではなく、男性にとって女性が、女性にとって男性が、神が定めた「自然な」愛の対象であるということを教えています。

それから、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創2,24)という言葉によって、男女の結婚生活は、神との完全な愛の交わり、つまり神との一致に導く一番一般的な道であるということが教えられるのです。

ちなみに、人生の目的に導く道である結婚生活は、旧約聖書においても、新約聖書においても、人生の最終的な目的、つまり、人間と神の完全な愛の交わりの象徴としてよく用いられているのです。

罪を犯す前の人間の状況

知恵の書において、次の言葉が書かれています。「神が死を造られたわけではなく、/命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない」(知 1,13)。また、「神は人間を不滅な者として創造し、/御自分の本性の似姿として造られた。悪魔のねたみによって死がこの世に入り、/悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである」(知 2,23-24)。要するに、元々人間は、死ぬことと、死に先立つ苦しみを体験することなく、神との完全な愛の交わりに向かって生きることになっていたということです。

教会が教えている通りに、創造されたときに人間は、「創造主との親しい交わりと、自分自身、また周囲の被造物との調和のうちに置かれていました」(カトリック教会カテキズム374)。さらに、「聖性の状態に置かれた人間は、神によって栄光のうちに完全に『神化される』はずでした」(カトリック教会カテキズム398)。すなわち、人間が神の本質である神性に預かることによって、神と一致して、神のようになることを神が望み、計画しておられたということです。

残念ながら、人間は罪を犯し、このような神の計画に逆らってしまったために、知恵の書が教えているように、死と共に苦しみがこの世に入ってしまったのです。

目次に戻る