第九講話

天使と人間の堕罪

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自由意志を与えられている人間は、正しい選択をするために、つまり自分に害を与えるものではなく、自分を生かすものを選ぶために、神に頼るしかありません。というのは、有限の存在であり、限られた知識しかもたない人間は、自分に可能なすべての行動の結果を知りませんが、神は、全知の方であるためだけではなく、ご自分が創造してくださった世界に与えた法則とか、人間の本質などを完全に知っておられたから、人間のすべての行動の結果も過ちなく知っておられるのです。それから、神は、嘘をつくことが絶対にありませんので、神のことばを信頼することが出来るのです。

エデンの園において人間が、神に言われた言葉、すなわち、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創 2,16-17)という言葉は、この真理を表しています。善悪の知識の木の実を取って、それを食べることは、神のことばや神の意志を無視して行動し、自分で自分の生き方を決めるということの象徴です。そのような選択の結果が、死であるとは、神が定めた人生の目的にたどり着く代わりに、命の源である神から離れてしまうということなのです。

創造されたばかりの人間は、神との親しい関係に生きていたために、神の望みを直観的に知っていたので、各行動について神に尋ねる必要がなかったし、神の望みに従うことも人間にとって自然で、簡単なことでした。人間は、神を信頼して、神の導きに従っていた内に安心して、人間らしく生き、何も苦しみを知らずに、神が定めた人生の目的に向かって確実に進んでいました。

堕罪した天使であるサタン

人間の堕罪を描いている物語は象徴的な形を以て、歴史的な事実を表しています。この物語に登場する蛇は、神話的な存在ではなく、悪魔やサタンと呼ばれている現実的な存在の象徴です。サタンは、元々神によって霊的な存在で、天使と呼ばれている神の使いとして創造されました。この天使は、本質的に善いものとして創造されたが、神に反抗した結果、堕罪してしまいました。

天使は、人間と同じように自由意志をもっていますが、人間よりもはるかに優れた知能をもっている存在です。人間と違って、天使は、自分の行動の結果を知っています。神とその支配を拒絶すれば、神の望みに適わない悪の存在になってしまうという結果をはっきりと意識した上で、神を拒絶することを自由に選んだ一部の天使は、堕罪した状態に永遠に生き、回心することも、神と和解することもできないわけです。

自分の本質に逆らう生き方をし、元々の美しさや幸福を失って、悪意と憎しみに満ちた存在となった天使、すなわち、サタンは、神と完全な愛の交わりに生きるために創造された人間を妬み、人間も神に反抗して、悪魔と同じ状態になるために、人間が創造された時から今に至るまで人間を誘惑したり、攻撃したりする、人間の最大の敵なのです。

確かにサタンは、人間よりも優れた知能と力をもっていますし、人間に害を与え、最終的に人間を神から引き離すように全力を尽くして働いていますが、人間と同じように被造物にすぎない存在ですので、神が許す範囲においてだけ働くことが出来るのです。従って、人間は、サタンより弱くても、神に信頼して、神の力に頼り、神の導きに従っているならば、悪霊とそのわざを恐れる必要がないのです。

原罪 (創3,1-10)

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創 3,4-5)という言葉を以て、「嘘の父」であるサタンは、人間の心に神に対する疑いをもたらすために、神を人間の競争の相手として、人間を騙す嘘つきとして、また、人間の幸福を妨げるものとして、見せようとしました。

それから、神が定めた人生の目的が生み出す人間の最も深い望み、すなわち、神のようになりたいという望みを実現する別の方法がある、つまり神が示した方法ではなく、もっと楽で、しかも、人間の力だけで用いることのできる方法があると嘘をついて、神を無視して、自分の運命を自分の手に入れるようにエバを誘惑しました。

サタンの嘘を信じたエバは、非現実的なもの、つまり、神無しに神のようになるのを求めるようになりました。この非現実な望みを実現しようとした試みの結果は、当然ながら、期待通りにならなかったのです。すなわち、エバは、神のようになる代わりに、神との親しい交わりを失ったと同時に、神の輝きを失った意味で、「死んだ」ということです。要するに、「嘘の父」である悪魔の約束が実現されずに、いつも真実を語る神のことばどおりの結果になったということです。

この物語においてエバは、善悪の知識の木から取って食べた実をアダムに渡してアダムもそれを食べたということになっています。それによって、アダムは、エバと同じようにサタンの嘘を信じて神に反抗したということが言われているのではく、人々は、同じ人間性で結ばれているために、一人の人の罪は、その人の個人的な問題ではなく、他の人にも影響を与えて、他の人もその結果に預かるということが教えられているのです。実は、源の罪を犯した人間の子孫であり、彼らから人間性、しかも、罪によって傷ついた人間性を受け継いでいる私たちを含めるすべての人々が、原罪と言われているこの人間の最初の罪の結果に預かっているのです。

原罪がもたらした結果

罪とその結果について、次の講話でもっと詳しく話しますが、人間の堕落についての聖書の物語を理解するために、罪に対する罰についての教会の教えを紹介する必要があると思います。それは、「罰」と言われているものは、「外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべき」(カトリック教会カテキズム1472)であるということです。すなわち、聖書は、罪を犯した人間が神から与えられた罰について語っているところを、人間が犯した罪の結果として理解しなければならないということです。

原罪の結果は、主に四つあります。まず、最も重要な結果として、人間が神との親しい関係を失い、神の善意と神の愛、また、神の望みを知らないようになったということです。そのために、神は人間の最大な味方であるにもかかわらず、人間は神を恐れ、神から遠ざかっていて、自分や他の人の判断に従って生きるようになっているわけです。第二の結果は、悪霊がより簡単に人間に近づき、人間を攻撃し、人間を騙すことが出来るようになったということです。第三の結果は、人間同士の関係に関するものです。すなわち、人間は、自分自身の尊厳と他人の尊厳を知らないようになり、互いに愛し合い、協力し合う代わりに、争ったり、他者を利用したりするようになったということです。第四の結果は、他の被造界との関係に関するものです。元々の調和と秩序が破壊されたために、様々な災害が起こるようになったと同時に、人間が病気するようになり、最終的に、死ぬようになったということです。

救いの約束

サタンは人間を自分の罠に落し入れ、罪に導いた後に、神は、サタンに向かって次のことばを語りました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」(創 3,15)。

この言葉は、悪に打ち勝つ約束です。つまり、神が必ず人間を罪の結果から救い、ご自分の最初の計画を実現してくださるという約束です。神は、この約束をマリアから生まれたイエス・キリストを通して成就してくださいましたが、その救いに預かるために、イエス・キリストを信じ、イエスに従う必要があります。

イエス・キリストが成し遂げた救いのわざを理解し、その恵みを受けるために、罪のこと、その働きと結果のこと、それから罪のゆるしのことを正しく理解する必要があると思いますので、次の講話から罪と罪のゆるしについてお話したいと思います。

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