キリスト者の祈り

祈りについてのイエス・キリストの教え

弟子たちの依頼に応じて、後で「主の祈り」と呼ばれるようになった祈りの言葉を教える前にイエスは、祈りに関する二つの主な過ちについて教えてくださいました。福音記者聖マタイは、この教えを次のように伝えています。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない」(マタ6,5-8a)。

福音書は、基本的にキリスト者のために書かれたものですので、その中でキリスト者以外の人々が批判されていることがあっても、それはキリスト者のための注意であるのです。ですから、「偽善者」や「異邦人」というのは、他人のことではなく、自分がキリスト者であっても、自分の祈りの形がキリスト教的なものであっても、実際にキリスト者らしくない自分、つまり、キリストのように祈っていない自分のことであるかもしれないという可能性を認めて、この言葉に基づいて、自分の祈り方を見つめる必要があるということなのです。

「偽善者」と呼ばれている人たちは、一応、祈りという宗教的なことをしていますが、それによって、祈りの対象になっているはずの神からではなく、他の人から何らかの報いを期待しています。自分の祈りの姿が見られたら、他の人、少なくとも祈りを大切にしている人に褒められるとか、信仰深い者と思われて、尊敬されるとか、宗教的な共同体の中での自分の立場が強くなるなどのような「報い」を期待しています。つまり、表面的に祈っているように見えても、「偽善者」と呼ばれている人たちは、神とは何の関係もないことをしていますから、この人たちがやっていることは、実際に祈りではないし、このような祈りに見える行動によって、祈りを大切にしている人々を利用しようとしているだけなのです。聖ヤコブはこの人たちに向かって次のように語ります。「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコ4,2-3)。要するに、人間は、一生懸命に努力しても、不正な働きによって、例えば、祈りをしている振りをすることによって他の人を騙して、欲しいものを手に入れることができたとしても、この人の心の真の望みが満たされないだけではなく、このような働きは、人間関係を悪くし、本人をはじめ、多くの人々に害をもたらすものになるということです。他の人が自分の心を満たすことができないということを認めて、神の助けを求めることがあっても、神と接する自分の動機を変えない限り、つまり、今度は人間ではなく神を利用することによって、自分の欲望を満たそうとする限り、この人の祈りに意味がないし、祈っても彼らの心が満たされないということなのです。

「異邦人」と呼ばれている人は、神の愛を知らない人のことです。この人は、神が全能の方であること、少なくとも、自分よりも大きな力を持っておられる方であるということを認めても、神には自分のことに興味がないとか、自分のことを知らないとか、気にかけてないように考えていますし、神が自分が求めているような働きをしてくださるために、自分のことを神に知らせなければならないとか、自分の言葉や行いによって神の意志を変えなければならないように考えています。結果的にこの人は、神のいつくしみに頼るのではなく、自分の努力に頼っていて、神に対して心を開くことなく、祈りをしていても、神との交わりを深めることがないのです。

このような過ちを繰り返すことがないために、神である父は、私たちが願う前から、私たちに必要なものを知っておられることをイエスが教えてくださいました(マタ6,8b参照)。そして、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタ5,45)方であるということも教えてくださったのです。したがって、人間が神との正しい関係に生きていなくても、つまり、神の意志に逆らうような生き方をしていても、神に向かって何も願わなくても、神が、例外なくすべての人々に必要なことを与えてくださるということなのです。

イエス・キリストが教えてくださった祈りの目的とは、神の意志を変えて、自分が求めている恵みや賜物を手に入れることではなく、神と出会い、神と交わり、神をもっと深く知り、ますます強く愛すること、最終的に神と一体になることです。ですから、私たちの祈りの目的は、神との交わりを深めることでない限り、この祈りはキリスト者の祈りにもなっていないし、父である神が求めておられるような祈りであるとは言えないのです。

確かに、イエスご自身の祈りを見て分かるように、キリスト者は祈りの中に、自分の怖れや不安、望みや期待を表すこと、自分に必要と思う助けや他の恵みを願うことができます。また、自分の祈りは神との真の対話になるために、そうしなければならないのです。けれども、イエスご自身と同じように、自分の望みや願いに拘ることなく、それを神の望みに合わせるように常に努力する必要があります。

私たちが自分のためや他の人のために求めていることが、真に良いものであって、本当に必要であるならば、神は、それを最も相応しいときに与えてくださいます。そのとき大事なのは、神がその賜物を与えてくださったのは、私たちが上手く願ったからとか、何らかの約束や行いによって、神の意志を自分の意志に合わせることができたからと考えるのではなく、神が私を愛してくださるから、この願いを適えてくださったという事実を認めることなのです。そうすると、この賜物をいただいたことは、自分の傲慢を強めるような体験ではなく、神の愛の体験になり、自分の努力への信頼ではなく、神の愛への信頼を強める体験になるのです。

神との愛の交わりが完成されることによって神と一つになることこそが人生の最終的な目的であるゆえに、人間の心を完全に満たすことができるのは、神のみであることを常に意識すれば、神からどれほど素晴らしい賜物を与えられても、それに執着することなくて、何らかの賜物ではなく、すべての良いものの与え主である神ご自身を求め続けることができると同時に、神との完全な一致に導く真のキリスト者の祈りもできるのです。

自分の望みが必ず聞き入れられる祈りを探し求めている人の参考のため

祈りに関するイエスの教えを知らないために、または知っていても、それをなかなか受け入れることができないために、祈っている人の殆どは、自分の望みを実現するために祈っているのではないかと思います。また、祈りについて考えているときや、祈りについて学んでいるときに、自分の祈りが本当に聞き入れられるかどうか、つまり、この祈りは本当に効果的であるかどうかということを問題にしているようです。

けれども、考えてみれば、いろいろな人々は同時に正反対のことを求めること(例えば、ある人は晴れの天気を求めるときに、他の人は雨を求めること)があるし、一人の人が望んでいる様々なことにおいても、互いに矛盾している望みがあること、つまり一つの望みが実現されたら、他の望みが実現されなくなるということもありますので、すべての人の、すべての望みが実現されることは不可能です。言い換えれば、自分の祈りが必ず聞き入れられるという意味での効果的な祈りがあり得ないということです。この事実を意識すれば、がっかりして、悲しくなり、祈りに対して興味を失う人がいるかもしれません。

けれども、以上の意味での効果的な祈りがないというのは、悲しむべきことではありません。逆に、喜ぶべきことなのです。なぜなら、人間は良いことばかりではなく、悪いことを求めることもありますし、良いことを求めるつもりであっても、無知で他人や自分に害を与えるようなものを求めることもあるからです。もし、すべての望みを適えるような祈りや他の方法があったならば、それこそが、非常に恐ろしいことです。できることならば、すべての人々の、すべての望みが一瞬の間だけでも実現されることを想像してみてください。それは、非常に大きな混乱、無秩序だけではないでしょう。真の地獄になるかもしれないし、この世が消えてしまうかもしれないでしょう。いずれにしても、とても怖くて、絶対に望ましくないことでしょう。

逆に、すべての人々を愛しておられるゆえに、すべての人のために真の善のみを求めておられる神の望みが実現されたら、この世界はどうなるのでしょうか。それは、正しく神の国、つまり、すべての人々が最も必要としている現実、実際に心の奥深いところで求めている現実、最高の幸福の状態になるに違いないと思います。

それだけを考えると、自分の望みの実現よりも、神の望みの実現を求めた方が、良いことで、賢くて、安全なことであると誰でも認めるはずです。