「苦難に満ちている人類にわたしのいつくしみ深い心によりすがるように言いなさい。そうすればわたしは彼らを平和で満たす」(日記1074)。
「人類は、信頼をもって、わたしのいつくしみに心を向けない限り、平安を見出さない」(300)。
主イエズスが福者ファウスティナに語ったこれらの言葉は、平和というすべての人々の共通の望みに目を向けさせ、また頼りにならないもの、即ち神以外のものに頼っているという多くの人々の心の不安の原因を示します。
この若い修道女は、生活を共にしていた人々にはほとんど知られないままでしたが、死後10年もたたないうちに、彼女の名前と写真は、全世界に広まりました。亡くなる数年前にシスター・ファウスティナはこう書きました。「わたしの使命は、死によって終るのではなく、死と共に始まるのだと確信しています。疑っている人々よ、あなたたちに神の善についてよくわかっていただくために、わたしは、天国の覆いをとり除きます。あなたたちがもう、不信の念によって、最愛のイエズスの御心を傷つけないように。神は、愛でありいつくしみなのです」(281)。
主イエズスは、神のみ旨やその恵みにいつも全力を尽くして協力した修道女を通して、神への絶対的信頼と他人に対する愛の行ないを中心とする神のいつくしみへの礼拝の新しい方法を全世界に伝えることを望まれました。確かに、教会は始めから神のいつくしみを礼拝し、願い求めていましたが、次第にそうではなくなりつつあったので、イエズスは、こんな使命をシスターに与えたのでしょう。
1. 神のいつくしみの使者
Helena Kowalska (ヘレナ・コヴァルスカ)は、グウォゴヴィエツというポーランドの村に1905年 8月 25日に生まれました。ヘレナは、貧しい農家の娘で、15歳から家族を支えるために、お手伝いさんとして働き始めました。20歳で、憐れみの聖母修道女会に入会し、Maria Faustyna (マリア・ファウスティナ)という修道名を名付けられました。修道院での彼女の仕事は、台所、庭仕事や受付でした。
シスターの聴罪司祭で、指導司祭であったイエズス会のソポチコ神父の指示に従って、ファウスティナは『私の魂における神のいつくしみ』という題で日記を書きのこしました。またキリストも、聴罪司祭と同じように、ご自分がいつくしみについてシスターに語った全てのことを書きしるすように命じられました。「与えられている自由時間をわたしの善といつくしみについて書くため利用しなさい。それは、あなたの人生の任務と使命である。人々の霊魂のために抱いているわたしの偉大ないつくしみを彼らに知らせ、わたしのいつくしみの深淵に信頼するように彼らを励ましなさい」(1567)。
そのような使命を与えてから、イエズスはファウスティナのことをご自分の「もっとも深い神秘の秘書」(1693)と呼ばれました。イエズスの秘書となった日記の記者は、村の学校に三年間足らず通っただけでした。そのために、L.グリギエルが書いているように、シスターは、「日記の執筆にはたいへんな苦労をし、単語の綴りをまちがえながら書いていました。・・・・・・しかし、日記の内容は豊かなものであり、また日記に使われていることばも、素朴で、ところどころに田舎なまりがあっても、特殊な叙情性があり、的を得た表現を使った美しい散文で、この日記を読む者を驚かせます。さらにもっとも捕らえ難い霊的な体験をも詳しく、現実的に描写されています。彼女は、表現しがたい神との直接的、もっとも親密な交わりの体験を伝えています。」そのためにこの日記は、神秘主義文学の重要な作品となっています。
シスター・ファウスティナは、その日記において彼女の使命を説明する主イエズスの言葉を謙遜に書きしるしました。「旧約の時代には、預言者たちをわたしの民に遣わしていた。今日は、わたしのいつくしみをもたせて、あなたを全人類に遣わす。わたしは、苦しんでいる人類に罰を与えたくない。わたしのいつくしみ深い心に人類を引き寄せることによって人々をいやしたい」(1588)。
福者ファウスティナの使命は、主に三つの部分から成り立っています。それは、
第一、神のいつくしみ深い愛について聖書に記されていることを全人類に思い起こさせること
第二、全世界が必要としている恵みを願い求めるために、神のいつくしみへの礼拝の具体的な方法を伝えること
第三、この礼拝の精神、すなわち神に対する福音的な信頼と隣人に対するいつくしみの態度に基づいた教会の刷新をすることです。
シスターの使命は、この精神を述べ伝えることだけではなく、それを生きることでした。「わたしの娘よ。わたしは、あなたを通して、わたしのいつくしみのへ礼拝を人々から求めるので、あなたが先にわたしのいつくしみに対する優れた信頼を示さなければならない。わたしへの愛から出るいつくしみの行ないをあなたから求める。あなたはいつでも、どこでも隣人にいつくしみを示しなさい」(742)。福者ファウスティナの偉大さは、このイエズスの要求に応えて、神のみ旨を完全に行なったことにあります。それは特に、罪人のためにささげられた祈りと犠牲の生活においてはっきり表われています。
ある出現の時に、十字架に掛けられていた主イエズスは、彼のように、そして彼と共に苦しむようにファウスティナに呼びかけました。「わたしの娘よ、人々の霊魂を救うためにわたしに力を貸して下さい。あなたの苦しみをわたしの受難に合わせ、それを罪人のために天の父にささげて下さい」 (1032)。彼女は、すぐにこの「招き」を受け入れました。後にこう書きました。「わたしはキリストとかたく結びつき、世界のための懇願のいけにえとなります。神のおん子の声で願う時、神はわたしに何も拒みません。わたしのいけにえそのものは何の価値もないのですが、それをイエズス・キリストのいけにえに合わせる時に、わたしのいけにえは、全能のものとなり、神の怒りをなだめる力のあるものとなります」(482)。
シスターは、自分が言っている通り(1372)、もうすでに子供の時から偉大な聖女になりたかったのです。聖性へ導く道についてこう語っています。「わたしは、戦いながら一日を始め、戦いながら終えます。一つの困難を乗り越えたら、そこに立ち向かうべき十個の新たな困難が出てきます。しかし、それを気にしません。なぜなら、今は、平和ではなく、戦いの時だということをよく知っているからです。この戦いがわたしの力を越える時は、子供のように天の父によりすがります。そうすれば、滅びないと確信しています」(606)。
ファウスティナは、修道生活を始めてからまもなく結核にかかりました。回復、再発を繰り返し、また他の多くの苦しみを受け、シスターは1938年10月5日に、33歳の若さで亡くなりました。
シスターは生きている間には、修道女たちの中でほとんど目立たない存在で、彼女の神秘的な生活やイエズスから与えられた使命については聴罪司祭と修道会の上長以外は誰も知りませんでした。死後、彼女のことが知られるようになってからその墓は祈りと崇敬の場所となり、彼女の取り次ぎによって多くの人々が必要な恵みをいただいています。シスターを通してイエズスが示された礼拝が世界中に広がり、その精神を生きる人々も増えています。
1993年 4月18日にシスター・ファウスティナは、教皇ヨハネ・パウロ二世によって福者にあげられました。
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シスター・ファウスティナの日記には、神から委ねられたこの「いつくしみのわざ」の将来について書き記されています。シスターが記したように、このわざは、ある期間に、「完全に無に帰されたような状態になりますが、そのときから、真実を証明する力強い神の働きが行なわれます。このわざは、前から教会に存在しているにもかかわらず、教会の新しい輝きとなります」(378)。
1959年に出現についての不適切な情報を与えられた聖座は、シスター・ファウスティナの教えによる神のいつくしみへの礼拝を広めることを禁じてしまいました。この状態は、20年間続きました。
1967年に、当時のクラクフの大司教カロル・ヴォイティワは、シスター・ファウスティナの列福調査の第一段階を成功のうちに終えました。主に彼の努力と介入のために、聖座は1978年4月15日に、神のいつくしみへの礼拝についての前の決断と禁止を取り消しました。
禁止が取り消された六ヵ月後に司教カロル・ヴォイティワ枢機卿は、教皇ヨハネ・パウロ二世になりました。
シスター・ファウスティナの列福式の時、教皇は新しい福者の使命についてこう言われました。「シスターの使命は続いており、驚くべき実りを結んでいます。シスターが伝えたいつくしみ深いイエズスへの信心は、現代の世界においてどれ程広がり、どれ程多くの人々の心を得ていることか、本当に不思議です。疑いもなく、それは時のしるし、わたしたち二十世紀のしるしなのです。それは、終わろうとしている今世紀の決算なのです。二十世紀は、過去の時代の進歩に勝る進歩があると同時に、未来に対する深い不安と憂慮があります。神のいつくしみ以外に、人々はどこに隠れ場や希望の光を見つけ出すのでしょうか。カトリック信者は、このことを知っています」。