III 神のいつくしみへの礼拝

神のいつくしみを礼拝するように呼び掛け、このいつくしみを願い求める必要性を強調していたイエズスは、ご自分の望みを実行するために礼拝の具体的な方法をシスター・ファウスティナに教えてくださいました。

1. いつくしみ深いイエズスの御絵

 福者ファウスティナは、1931年 2月22日の出現を次のように描いています。「夕方、私が部屋にいた時、白い長衣を着た主イエズスを見ました。一方の手は祝福するために挙げられ、もう一方は、長衣の胸のあたりに触れていました。そして、長衣の胸元の開いたところから、赤と青白い二本の大きな光が流れていました。私は静かに主をじっと見つめていました。私の魂は、恐れと同時に大きな喜びに打ち負かされてしまっていたのです。暫くしてから、イエズスは私にこう言われました。『あなたが、見ているままに、「イエズスよ、あなたに信頼します」という言葉が刻み込まれている、わたしの姿を描きなさい。この絵姿を、先ずはあなたたちの聖堂、そうして全世界で崇敬してほしい。この絵を崇敬する人は決して滅びないと約束する。そして、既にこの地上にいるうちに、特に臨終の時に敵に対して勝利をおさめることをも約束する。私の栄光として、この人を私自身が守る』」(46-48)。 キリストの言葉によれば、この絵こそ、人々が「恵みをいただくためにいつくしみの泉へ近づく時、手にすべき器」(327)なのです。
指導司祭に頼まれて、ファウスティナは御絵の光の意味についてイエズスに尋ねました。イエズスは答えて、こう説明してくださいました。「この二つの光は水と血を意味する。青白い光は霊魂を義とする水、赤い光は霊魂の生命である血を意味する。この二つの光は、十字架上で死にかかっていた私の心臓が槍で開かれた時に、私のいつくしみの中から流れ出た。この二つの光のもとに生きる人は幸い、神の正義の御手は、この人を捕らえることがないからである」(299)。
いつくしみ深いイエズスの御絵が出来たのは、ファウスティナの指導司祭ソポチコ神父のおかげです。御絵の存在、またはその図解の形と神学的な内容に関するイエズスの望みがわかった後、神父はこの絵を画家のエウゲニュシ・カジミロフスキに描いてもらいました。
カジミロフスキ師はファウスティナの詳しい指示に従って絵を描いたにもかかわらず、絵が出来上がった時、この「肖像」のイエズスが、ファウスティナの見たイエズスほど美しくなかったので、彼女は満足するどころか悲しみの涙を流しました。するとイエズス自身がシスターを慰め、その際神のいつくしみへの礼拝には何が大事かを教えました。「この絵の偉大さは絵の具の色や筆の美しさにあるのではなく、私の恵みにあるのである」(313)。
エウゲニュシ・カジミロフスキが描いた絵は、今日に至るまでヴィルノの聖霊教会におかれ、崇敬をうけています。しかし、全世界に知られるようになったのはこの絵ではなく、アドルフ・ヒワの絵なのです。
アドルフ・ヒワが戦争で家族全員が助けられたことへの感謝の奉納として1943年に、いつくしみ深いイエズスの絵を描いて、それを憐れみの聖母修道女会のワギエフニキ修道院にささげました。

2. いつくしみの祭日

礼拝に関する教えの中で、イエズスは復活祭日の次の日曜日(復活節第二主日)に祝うべきいつくしみの祭日についてもっともよく語っておられます。イエズスは、この日を選ぶことによって、神のいつくしみと過ぎ越しの神秘との密接な関係を表しています。救いのわざは、神のいつくしみの最高の表現であるというわけです。いつくしみの祭日は喜びに満ちたキリスト教の希望の祭日、神のいつくしみによって、復活された方と共にわたしたちも復活するという希望の祭日なのです。イエズスが求めているのは、いつくしみの祭日が、そのための特別な礼拝の日だけではなく、すべての人々、特に罪人のために恵みの日となることです。「わたしの望みは、いつくしみの祭日が、すべての人、特にかわいそうな罪人のための逃れ場と隠れ場になることである。この日、わたしのいつくしみの深みが開かれている。わたしのいつくしみの泉に近づく人の上にわたしはあふれる恵みを注ぐ。ゆるしの秘跡を受け、聖体拝領する人は、とがと罰を完全にゆるされる。この日に神から流れる恵みの全ての出口が開かれている。罪が深紅色のようであっても、わたしのもとに近づくのを誰も恐れないように」(699)。
イエズスは、この祭日の準備として、ノヴェナ(九日間の祈り)を行うことを求めています。このノヴェナは、毎日唱える神のいつくしみへの祈りの花束から成り立ち、聖金曜日に始まります。
福者の日記には、別のノヴェナ、シスターが個人的に行うためにイエズスに教えられたノヴェナが書かれています。このノヴェナは、神のいつくしみへの礼拝の一部として与えられたものではありませんが、信者も信頼を込めて、いつくしみの祭日の準備として、また普段の祈りにこのノヴェナを用いることができます。

いつくしみの祭日の前のノヴェナ

主イエズスは、シスター・ファウスティナにいつくしみの祭日に備えてノヴェナを行なうように命じた時、こう言われました。「この九日間に、あなたがわたしのいつくしみの泉に人々の魂を連れてくることを求める。この魂が、人生の苦難の時、特に臨終の時に必要としている力と安らぎ、そしてあらゆる恵みを汲むために。一日毎に、わたしの示す霊魂のグループをわたしの心に連れてきて、その人たちをこのいつくしみの海に浸しなさい。わたしは、このすべての魂をわたしの父の家に導き入れる。あなたは、この世においても、または来るべき世においてもこれを行いなさい。わたしのいつくしみの泉に導き入れる魂の願い事を拒むものは何もない。あなたは毎日、この霊魂のための恵みをわたしの辛い受難によってわたしの父に願いなさい」(1209)。

いつくしみの祭日の前のノヴェナ

いつくしみの祭日の祝い方

いつくしみの祭日では、いつくしみ深いイエズスのご絵が公に祝別されて崇敬を受けること、また司祭たちが「神の限りないいつくしみについて人々に語ること」を、イエズスは求めています。
信者は、イエズスが与えたい豊かな恵みを受けるために、まずゆるしの秘跡を受けることによって(祭日の数日前でもいい)神と和解をし、この日に信頼をもって、「命の源」であるご聖体を受ける必要があります。

ゆるしと和解の秘跡

シスター・ファウスティナの日記によると、主イエズスは、わたしたちがゆるしの秘跡を受けることによって、神のいつくしみを礼拝すると強調しています。
シスター・ファウスティナに向かって、主イエズスはこう語ります。「わたしのいつくしみについて書き、話しなさい。慰めを探すべきところを人々に教えなさい。それは、いつくしみの裁判所である。そこでは最も偉大な奇跡が絶えず繰り返される。わたしの代理者のもとに近づき、自分の全てのみじめさを話すだけで、神のいつくしみの奇跡は完全に現れる。魂は、腐りつつある死体のようであっても、あるいは人間にとっては、復活が不可能となり、すべてが失われたようになっても、神にとっては、そうではない。神のいつくしみは完全にこの魂を復活させる」(1418)。
「ゆるしの秘跡に近づく時、告解所には、わたし自身があなたを待っているということを意識しなさい。わたしは司祭の姿に隠れるが、魂において自分自身で働く。ここでは、みじめな魂は、いつくしみの神と出会う。このいつくしみの泉から、ただ信頼という器だけで恵みを汲むことが出来ると人々に言い伝えなさい。彼らの信頼が大きければ大き程、わたしの気前よさには限界がない」(1602)。

聖体拝領

イエズスは、シスター・ファウスティナにこんな言葉を語りました。「わたしは、人間の霊魂と一致することを望む。霊魂と一致することは、わたしの大きな喜びである。聖体において人間のこころに入る時、わたしの手はあらゆる恵みで満たされている。この恵みを人々に与えたいが、人々はわたしを無視し、一人に残して、別のことに心を向ける。人々が愛を見きわめないために、わたしはとても悲しんでいる」(1385)。
「ご聖体において、わたしと一致する人が少ないので、わたしはとても苦しい。わたしは人々を待っているのに、彼らはわたしに対して無関心である。わたしはこころをこめて、これほど誠実に彼らを愛しているのに、彼らはわたしを疑う。彼らにたくさんの恵みを注ぎたいのに、彼らはそれを受け入れたくない。わたしには愛といつくしみに満ちあふれるこころがあるのに、彼らは、わたしを何か死んだものように扱う」(1447)。

3. 神のいつくしみへの祈りの花束

シスター・ファウスティナは1935年 9月13日に与えられた神秘的な体験についてこう書いています。「夕方、自分の部屋にいる時、神の怒りの天使を見ました。・・・・・・世界が必ず悔い改めて、償いをはたしますから、しばらく待ってくださるように、天使に願いましたが、神の怒りに対してわたしの願いは無力でした。その時、・・・・・・わたしは内面的に聴こえる言葉で世界のために神に願い始めました。このように祈ると、天使の無力な姿を見ました。天使は、世界が罪のために受けるべき正しい罰を与えることが出来ませんでした。かつて、これほどの内面的な力を持って祈ったことはありませんでした。・・・・・・ 翌朝、わたしたちの聖堂に入ると、こんな内面的な言葉が聞こえました。『聖堂に入る度に昨日私があなたに教えた祈りを唱えなさい。この祈りを普通のロザリオを用いて次のように唱えなさい。はじめに主の祈り・天使祝詞・信仰宣言を一回ずつ唱えてから、主の祈りの珠のところで次の言葉を唱える。「永遠の父よ、私たちと全世界の罪のゆるしのために、あなたの最愛の子、私たちの主、イエズス・キリストの御体と御血、御霊魂と神性をあなたにおささげいたします。」天使祝詞の珠のところで次の言葉を唱える。「イエズスの苦しいご受難によって、私たちと全世界にいつくしみを注いで ください。」最後に次の言葉を三回唱える。「聖なる神、聖なる全能の神、聖なる永遠の神よ、私たちと全世界を憐れんでください」』」(474 – 476)。
後にイエズスはシスターにこう言われました。「この祈りの花束を絶えず唱えなさい。この祈りを唱える人は、誰であっても、臨終の時には偉大な憐れみを受ける。司祭は、この祈りを最後の拠り所として罪人に与える。最も罪深い人であっても、この祈りの花束を一回だけ唱えれば、私の限りないいつくしみから恵みが与えられる。私は、全世界に私のいつくしみを知ってほしい。私のいつくしみに信頼する人々に、想像もつかない恵みを与えたい」(687)。

4. 偉大な恵みの時間

ある出現の時に、神が、主イエズスとその苦しい受難によって地球を祝福しているとシスター・ファウスティナは分かりました。「大きな光を見ました。この光のうちに父である神がおられました。この光と地球の間に十字架につけられたイエズスを見ました。神は、地球をながめようとされた時に、必ずイエズスの傷を通して見なければなりませんでした」(60)。
福者ファウスティナの日記によるとイエズスは特に、私たちにイエズスの十字架の死を思い出させる時間、つまり三時にご自分の受難を黙想し、この受難がもたらした恵みを求めて、祈ることを望んでいます。「三時に、特に罪人のために私の憐れみを願い、そうしてほんの短い間でも私の受難、特に死ぬ時の私の孤独について黙想しなさい。この時間は、全世界のための偉大ないつくしみの時間なのである。あなたに、わたしの致命的な悲しみを悟らせる。この時間に、私の受難によって私に願う人々をわたしは誰一人拒むことがない」(1320)。
イエズスは、この時間に十字架の道行きや聖体訪問をするように、またこれが出来なければ、その時間にいるところで短い祈りを唱えるようにシスターに言われました(1572)。わたしたちはたとえば、イエズスがシスターに教えた次の祈りを唱えることが出来ます。「わたしたちのために、イエズスの御心からいつくしみの泉として流れ出た血と水よ、あなたに信頼します」(187)。

5. 神のいつくしみを宣べ伝えること

イエズスは、神のいつくしみを宣べ伝えるように励まして、こう言われました。「わたしは、わたしのいつくしみへの礼拝を広める人を、母が自分の赤ん坊を見守っているように一生涯見守る。そして臨終の時に、彼らにとって審判者ではなく、いつくしみ深い救い主となる」(1075)。「わたしのいつくしみを賛美し、信頼するように他の人々を励ますことによってこの礼拝を広める人々は、臨終の時に決して恐れを味わうことがない。この最後の戦いの時に、わたしのいつくしみがこの人を包む」(1540)。
イエズスは、神のいつくしみを宣べ伝える司祭に特別な約束を与えてくださいました。「わたしの司祭たちにこう言いなさい。彼らが、わたしの限りないいつくしみについて、または、罪人のためにわたしの心にある憐れみについて語る時に、彼らの言葉を聞くかたくなな罪人が悔い改めるであろう。わたしのいつくしみを宣べ伝え、それを崇める司祭には、不思議な力を与える。彼らの言葉を祝福し、彼らの言葉を聞く人の心を動かす」(1521)。

IV 神のいつくしみへの礼拝の本質