IV 神のいつくしみへの礼拝の本質

1. 信頼

「あわれみを受けるために、
また時に適した助けの恩寵を見いだすために、
信頼をもって恩寵の玉座に近づこう。」
ヘブ4・16

 神のいつくしみへの礼拝において最も重要なこと、その「心」とは、イエズス・キリストに対する絶対的信頼なのです。ファウスティナが日記に書き記した言葉を通して主イエズスは、それを強く強調します。「信頼をもって、わたしのいつくしみに心を向けない限り、誰一人も義とされない」 (570)。「最も大きな罪を犯している人がわたしのいつくしみに信頼するように。他の人よりも彼らこそ、わたしのいつくしみの淵に信頼する権利がある」 (1146)。「私のいつくしみから恵みを汲むためには、ただ一つの器しかない。それは、信頼なのである。人は、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」 (1578)。「わたしは自分自身をあなたの信頼に任せる。あなたの信頼が大きいほど、わたしは限りなくいつくしみを与える」 (548)。「わたしを信頼しないことが、何よりもわたしを大きく傷つける」(1076)。
要するに、シスター・ファウスティナに啓示された、神のいつくしみへの礼拝の価値やその効果は、主イエズスに対する信頼の大きさによるのです。シスター・ファウスティナの日記からわかるように、この信頼とは、信仰、希望、謙遜と痛悔という徳から成り立つ心得なのです。
そこは、信仰の徳が基礎となっています。「わたしが霊魂に働きかけるためには、霊魂が信仰を持たなければならない」(1420)ということをイエズスは思い起こさせます。実は、わたしたちは信仰によってのみ、超自然の現実、そしてそれによって神のいつくしみを見きわめることが出来ます。わたしたちが、神をより深く知るようになればなるほど、わたしたちの希望は生き生きとしたものになり、神に対する信頼が深まるのです。
神の善に対する信頼は、謙遜なものであればあるほど強くなります。実は、信頼と謙遜は不可分なものなのです。なぜなら、自慢する人、自分の力に頼って生きている人は、神に信頼する必要性を感じておらず、信頼することが出来ないからです。謙遜な人は、自分の限界や弱さを認め、自分の内に、または周りにあるすべての良いものは神の賜物であるということをよく知っています。そのために謙遜な人だけが、子供が自分のお父さんを信頼するように、神の智恵、神の力といつくしみを信頼し、すべてをゆだねることが出来ます。
信頼するようにと罪人に呼びかけるイエズスは、こう言われます。「痛悔する霊魂にとって、わたしはいつくしみのみである」(1739)。痛悔なしの信頼は破廉恥であり、いつくしみではなく、放縦を期待することなのです。
神に対する信頼の態度は、外面的に神のみ旨に適う行ない、つまり神の導きに従って神が求める道を歩むことにおいて表現されます。つまり、神に信頼するとは、実践において神をいつくしみ深い父、自分の子供たちの幸福のみを求めておられる父として認めることなのです。

2. いつくしみの実行

「憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。」
マタ4・7

 神のいつくしみを礼拝しその憐れみを願い求める人は、自ら行いや言葉や祈りによっていつくしみを実行しなければならないと、イエズスは強調します。「わたしへの愛から出るいつくしみの行ないをあなたに要求する。・・・・・・隣人に対していつくしみを実行する三つの手段をあなたに教える。第一は、行ない。第二は、言葉。第三は、祈り」(742)。後にイエズスは、付け加えて「霊的ないつくしみの貢献」の力強さについて話し教えられました。霊的ないつくしみは、「許可も倉もいらない。すべての人に出来ることなのだ」 (1317)。ここで、イエズスが言っているのは、何も持たなくても、どんな状況にあっても出来る祈りと犠牲のことだと考えられるでしょう。しかし、「いかなる手段においても、いつくしみを実行しない人には、裁きの日にわたしのいつくしみは与えられない」 (1317)。
主イエズスがファウスティナに描くようにと命じた御絵は、崇敬の対象や主イエズスが恵みを与えるために用いる道具であるだけでなく、何よりもそれは、いつくしみの実行の要求を思い出させるしるしでなければなりません。この要求は、絶対的なものです。「・・・・・・それは、わたしのいつくしみの要求を思い出させるはずだ。なぜなら、行ないなしには、最も強い信仰さえも何の助けにもならない」(742)。

V 神のいつくしみの礼拝者の運動