VI 現代における教会の祈り

教会は、十字架につけられて復活したキリストのうちに現れた神のいつくしみについて真実を宣べ伝え、さまざまな方法で証しします。さらに、人を通して人へのいつくしみを実行するように求めます。それは、きょう、またあすの世界が、よりよい所、つまりもっと人間らしい所になるために必要な条件であると認めるからです。教会は、歴史のどんな時代、どんな時期、特に現代のような危機に満ちた時代にも、祈りを忘れることはできません。その祈りは、人類の上に重くのしかかって脅かす多くの悪の形態のなかで神のいつくしみを求める叫びです。これはキリスト・イエズスに生きる教会の基本的な権利であり、義務です。神に対し、そして人類に対する権利であり義務です。人間の良心が世俗化に落ち込めば落ち込むほど、「いつくしみ」ということばの意味を忘れ、神から遠のき、いつくしみの秘義から隔たりをもてばもつほど、教会は、「大きな叫び」をもっていつくしみの神に訴える権利と義務とが増します。この「大きな叫び」、神のいつくしみを求める叫びは現代の教会の特徴でなくてはなりません。そのいつくしみは、十字架につけられて復活されたイエズス、すなわち過ぎ越しの神秘のうちに確かに表されたと教会が信じ、また宣べ伝えています。この神秘こそ、いつくしみのもっとも完全な啓示をうちに担っています。それは死よりも強い愛、罪よりも、どんな悪よりも強い愛の啓示であり、人間が深い淵に落ち込んだときに引き上げ、いちばん強大な脅威からも自由にする愛です。
・・・・・・十字架につけられて復活されたイエズス・キリストの名において、今の人類の歴史のこの段階において表されるように、そして御子と聖霊の働きを通してこの愛が現代世界にも身近にあって、それがすべての悪より、罪より、死より強いことが示されるようにわたしたちは声高らかに祈ります。「憐れみは世々に及ぶ」と宣言してやまないあのおかたの執りなしもあって、また「憐れみ深い人はさいわい、彼らは憐れみを受ける」との山上の垂訓のおことばが完全にその人のなかで満たされたような人々の執りなしをも、頼って祈ります」。

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いつくしみ深い神』8章の15

VII 聖ファウスティナの祈り