1. 苦しい体験に対する人間の反応

私たちは悪意がなく、またそのつもりがなくても、自分自身をはじめ、他の人を傷つけることがあるのではないでしょうか。その理由がたくさんありますが、そのうちの一つ、恐らく最も一般的なのは、私たち自身が過去に傷つけられたことがあることなのです。精神的な傷を負わせた苦しい体験を忘れても、この傷が本当に癒されていない限り、私たちの振る舞いを支配し、私たちの意志に逆らうような行為をさせることがあります。このような精神的な傷を及ぼす体験とは、例えば、誤解されたこと、嘲笑されたこと、孤独になったこと、裏切られたこと、拒絶されたこと、別離(大切なものを失うこと、自分や両親の離婚、親しい人の死、養子に出されたことなど)、虐められたこと、侮辱を受けたこと、不正に扱われたこと、騙されたこと、悪用されたこと、利用されたこと、暴力や虐待を受けたことなどのようなことです。

このような苦しい体験は、人間から安心感とか、正義感や自尊心などを奪い取って、精神的な安定を壊し、混乱させます。このような状態は、言うまでもなく、人間にとって苦しいことであるわけですので、その状態からなるべく早く脱出したい、この苦しみを少しでも和らげたいという望みを抱くのは、当然です。最終的に、精神的な傷の癒しによるゆるしだけが、新しい精神的な安定、しかも、前よりも強い安定を作り上げること、また、前よりも大きな喜びや安心、それから、必要があるならば損失したものを取戻すことに繋がりますが、より大きな傷の癒しの過程は時間がかかりますし、努力も必要としていますので、殆どの人は、精神的な傷を癒すことはできなくても、より早く苦しみを和らげる手段を選びます。実は、それを意識的に選ぶというよりも、殆ど考えずに、反射的にそれを実行するということです。それは、医者の所へ行って、ちゃんとした治療を受ける代わりに、副作用を考えずに痛み止めにだけとどまるようなことなのです。

精神的な傷を負わされた人の苦しみを和らげるために用いられる手段を、大きく三つに分けることができます。一つは、辛い感情を抑えること、二つ目は、自分の感情を発散すること、三つ目は、自分の苦しみを代償することです。具体的にそれは、次のようなことになります。すなわち、復讐、自己防衛、苦しい体験に意味を付けること、加害者を真似ること、他人から理解や憐みや慰めを追求すること、自己正当化などです。このような行動を少し詳しく分析して、それに対する人の期待や実際の働き、また、その結果を見ることによって、そのような努力の空しさをよく理解していただけるのではないかと思います。

精神的な(心の)傷の発生の仕組み、その結果とそれに対する可能な反応

1.1 復讐

殆どの場合、復讐をしなければならないという思いは、不正や他の苦しい体験に対する最初の反応なのです。その理由を次のように理解することができると思います。たとえば、誰かが私に暴力を振るったならば、この暴力によってものを失ったとか、体が傷つけられたという問題よりも、大きな問題が生じます。この問題というのは、この暴力を振るった相手が、私よりも力の強いものであり、私にとって危険な人物であることを表したわけですので、そのような暴力をいつでも繰り返される恐れがあるし、この力関係が変わらない限り、安心して生きることができないというような心配に満ちた新しい現状なのです。復讐をしようとする人は、時に不正を行った人を罰することが正しいことであると言いながら、自分が正義を行うと訴えますが、実際に、自分が受けた暴力よりも、大きな暴力を返すことによって、相手が示した力よりも大きな力を示し、力関係を自分に有利な方に変え、恐れと心配に満ちた現状から脱出することを目指しているのです。要するに、自分の暴力、つまり悪を行うことによって、この人が失った安心感を取り戻そうとするわけです。

このような復讐は、可能であるならば、それを実行することによって、最初の悪よりも大きな悪が行われるし、初めに加害者であった人は、被害者になるわけですので、この人も復讐をするならば、悪が段々とエスカレートする一方です。結果的にこの悪循環に巻き込まれているすべての人が被害者になり、苦しむわけです。

けれども、時に被害者となった人は、加害者よりも強くなることができず、復讐を求めても、それを実行することができないことは珍しくありません。この状態は、非常に大きなフラストレーションを生み出しますし、このフラストレーションを発散するために、または自分が(加害者よりは弱くても)誰かより大きな力を持っていることを示すことによって、少しでも満足感や安心感を味わうために、この人は、いろいろな非合理的な行動をとることになります。たとえば、自分がされた不正を自分より弱い人に対して行うということであったり、自分の苦しみを自分を愛しているはずなのに守ってくれなかった人のせいにして、この人を避けたり、縁を切ったりして、ますます自分の心を閉ざすことであったりします。

結果的に、復讐しなければならないという思いを手放さず、この思いに支配される人は、直接的に加害者に対する復讐ができても、できなくても、自分をはじめ、多くの無実な人を傷つけますし、元々の問題を解決することができないだけではなく、自分の現状をますます悪くするだけです。

1.2 自己防衛

精神的な傷を受けた人は、それを意識しても、しなくても、傷を負わせた体験と同じような体験を恐れるのは、当然ですが、この傷が癒されない限り、この恐れによって左右されて、そのような体験をしないように自分を防衛することが一番大切なこととなります。自分を守る一つの方法とは、同じような人とか、同じような場所とか、同じような状況を避けるということなのです。たとえば、人の前で何らかの間違いや失敗をしたために、辱められた人は、人の前に出るのを嫌がって、自分のためとか、他の人のためになるようなことがよくできても、人の前に出ないように、それを実行することを諦めるのです。それとも、誰かに裏切られた人は、誰をも、たとえそれが、心から自分のために善を求めている人であっても、絶対に信頼しないというようなことなのです。

自分を傷つけた苦しい体験から自分を守るために、似たような状況を避ける以外に、もう一つ可能な方法があります。それは、同じようなことが起こる前に、それを起こすかもしれないという人を攻撃するということなのです。たとえば、失恋によって傷つけられた人は、もはや恋に落ちないように注意するとか、恋に落ちてもそれを絶対に相手に告白しないだけではなく、自分に対して興味を示した人に対して失礼な態度をとったりすることによって、この人を自分から遠ざけるようにするというようなことなのです。

この人は、このように自分を新しい苦しみから守るつもりですが、実際に、善を行うチャンスや他の可能性を無駄にすることによって、自分の成長を妨げますので、それは自分にとって元の傷よりも大きな害をもたらすものになりますし、他の人にも大きな害を与えることにもなるのです。

1.3 苦しい体験に意味を与える試み

傷つけられた人は、多くの場合自分の苦しい体験の原因を探します。けれども、この原因を理解しようとするのは、自分に傷を負わせた人をゆるすためではなく、失われた安心感を取り戻すためなのです。なぜなら、苦しい体験の原因を見つけ出せば、つまりそれは偶然ではなかったということが分かれば、それを避ける方法も見つけるだろうと思っているからです。特に、自分の考え方や振る舞いが自分の苦しみの原因であるということが分かれば、自分が何かの力によって振り回されているのではなく、自分が自分の人生を管理することができるという確信が回復されます。というのは、自分の苦しみは、例えば自分の間違いのせいであったならば、同じような間違いを繰り返さないように注意するだけで、同じような苦しみを避けることが出来ると思っているのです。そのために、傷つけられた多くの人が、自分の苦しみの理由を自分の内に探しているわけです。考えてみれば、それも自己防衛のもう一つの方法であります。例えば、自分の苦しみは、自分が犯した罪のための神の罰であると考えるならば、今度罪を犯さないことによって、この罰、つまりこの苦しみを与えられることがないと思うので、安心することができるわけです。けれども、自分の苦しみの原因は、自分の行動によって決まるのではない、つまり自分がコントロールのできないものであるならば、何をしてもこの苦しみを避けることができないわけです。その場合は、自分が無力であり、絶望的な状態にあると感じて、安心することができないわけです。恐らく、人間の心理がこのように働いているゆえに、「正しい審判者」である神、つまり良いことをする人に報いを与え、悪いことをする人に罰を与える全能者が非常に魅力的な存在になっているかもしれません。確かに、このような神を信じることによって、自分が自分の運命を管理することができるという確信を持って、ある程度まで安心して生きることができますが、このような神を愛することができないし、神との親しい交わりの内に生きることができないので、得ることよりも、失うことが多く、このような安心感の値が高すぎるのではないでしょうか。

自分の苦しみの原因は、本当に自分にあるならば、前述のような考え方はとても良いものです。なぜなら、自分の間違いを正すことによって、より良い人間になり、より健全な人生を送ることになるからです。けれども、苦しい体験は、自分のせいではなかったならば、その原因を無理やり自分の内に探すことや事実に逆らって自分のせいにすることは、元々の苦しみよりも大きな問題を起こす恐れがあります。人間は、自分において納得できるような原因を見出すことができなければ、「私がそんなもんだから」とか、「それが私の運命だから」というような結論を出すことがあります。結果的に自己像が非現実的なものになり、自尊心を失い、自分の生き方をこの間違った自己像に合わせることまであります。それをもっと理解するために、実際に起こった、ある女性の体験を紹介したいと思います。

この女性は、若いときに、数人の青年男子によって乱暴されました。その後、自分の苦しみの原因はあの男たちにあったという事実を認める代わりに、それを無理やり自分に探そうとしました。「もしかして自分の服装や歩き方によって彼らを誘惑したかもしれない」とか、「もしかして、自分を守るために十分に戦わなかった、または、叫ぶ声が小さすぎたかもしれない」とか、「その日、学校に行く代わりに公園に行ったからそのようなことが起こったかもしれない」などのように考えたりしましたが、それらが自分の不幸の本当の理由であったと自覚しませんでした。そして、乱暴されたのは、自分が価値のない人間であって、誰かに尊敬されるはずがない、屑のように扱われるのが当然であると考えるようになって、そんな自分にとってもっとも相応しい職業とは売春であるという結論を出したのです。結果的に、数年の間、実際に娼婦として働いていました。幸いに、ある司祭に助けられ、乱暴によって負わされた傷が癒されて、加害者であったあの青年たちをゆるすことができた後に、前の生活に戻ることができたのです。

1.4 加害者を真似る

子どもの時に自分の親から虐待を受けた多くの人は、自分自身が親になったら、自分の子どもに暴力を振るうということがよく知られていると思います。また、先輩から虐めを受けたならば、自分が先輩になったときに、自分の後輩を虐めるということもよくあるでしょう。どうしてこのようなことがあるのでしょうか。子どもの場合、考えられる一つの理由とは、暴力を振るう親しか知らない子どもの精神にそのような親の姿が非常に深く刻まれて、そのような振る舞いは親がするものだというような強い確信を持つようになります。そして、他の模範がなくて、子どもの他の扱い方を知らないために、自分にとって非常に嫌なものであった自分の親の振る舞いを真似るわけです。多くの人にとって、先輩が後輩を虐めることは当然であって、そのような行動には何か問題があるということを考えることさえできないようです。もしかして、そのような確信は、自分たちが後輩であった時に、先輩の虐めに耐えるために必要な力の源になっていたかもしれません。それから、自分が弱い立場にあった時に、虐めを受けたことによって、強い立場になった時、弱い立場にある人を虐める権利があると考えるようです。このような考え方によって自分の苦しみに意義を付けることができますが、同時にますます多くの人に苦しみをもたらす悪循環を固めることになるのです。

最終的に、例えそれは自分の両親や配偶者であっても、先輩や上長であっても、誰にも、他の人に暴力を振るう権利がなくて、弱い人に暴力を振るうことが不正な行動であるという事実と、自分がこの不正の被害者であるという事実を認めた上で、加害者をゆるすことによってだけ、この悪循環を破ることができるのです。

1.5 賠償を求める

苦しい体験をした人の中には、他の人の理解や他の人からの慰めを求めて、自分の体験についてよく話します。確かに他の人から、理解や慰めを得たら、自分の苦しみが少し和ぐでしょうが、それは問題の解決にはならないのです。このような振る舞いによってこの人は、自分の状態を固めるだけなのです。他の人の憐みを追求して、自分の傷の癒しのために何もしないことによってだけではなく、この傷を絶えずいじることによっても、癒しの過程を妨げるのです。

自分の苦しみを少しでも和らげるために、他の人の理解や慰めに頼る人は、それによって依存されるようになる恐れがあります。こうなると、他の依存者の場合と同じように、望ましい効果を得るために、ますます大きな理解とますます大きな慰めが必要になるわけです。それから、他の人から理解や慰めを受けるのは、自分の権利で、他の人の義務であると考えるようになることもありますので、それを得られないときに、欲求不満を感じて、他の人を攻撃したりすることによって、人間関係を段々と悪くし、自分の苦しみが段々と大きくなるわけです。

1.6 自己正当化

傷つけられた人は、「昔にそんなに苦しい体験をしたので、今自分の感情を抑えることができない」とか、「子どものときに十分に愛されなかったので、今愛することができない」などのように言いながら、自分の弱点、または自分の失敗や間違いを昔の苦しい体験のせいにすることがあります。そのつもりがなくても、この人が実際に言っているのは、自分の人生をまったく管理することができない、自分の生き方が周りにいる人の行動やいろいろな出来事によって操られているということなのです。確かに、そのように自己正当化をすることによってより気楽に生きることができるかもしれませんが、自分の振る舞いの責任をとらないし、より正しく生きるように何もしなくてもいいと思っているわけですので、自分の過ちを正すことなく、成長することもできないのです。この人は、いくら年をとっても、責任感のある成人になることができず、いつまでも子ども扱いされても不思議ではないでしょう。

目次へ戻る   続きを読む