第十六講話

受肉の神秘

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旧約時代の偉大な預言者であったイザヤは、メシアについて多くのことを予言しました。そのうち、特に一つの予言が非常に不思議です。それは、「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザ 7,14)という予言です。

まず一つの不思議なこととは、メシアは、おとめから生まれること、つまり、メシアには、地上の父親がないということです。二つ目の不思議なこととは、メシアは、インマヌエルと呼ばれることです。ヘブライ語の言葉であるインマヌエルは、「わたしたちと共におられる神」という意味します。つまり、メシアの誕生によって、神ご自身が我ら人間の間に入ってくださり、メシアを通して神が我らと共にいてくださるということです。

イエスの誕生の予告

ナザレで暮らしていたマリアがヨセフという人と婚約をしていました。ヨセフと結婚して、一緒に住むようになる前に、マリアのところに神によって遣わされた天使ガブリエルが現れて、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(ルカ1,31-32)と告げました。マリアは、おとめであったので、自分がどのように母になるかと聞きました。マリアの質問に答えて、天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1,35)と言いました。

考えて見れば、人間が生まれるために母親だけではなく、必ず、父親も必要です。けれども、天使ガブリエルが説明した通りに神の特別な働きによって、マリアから生まれたイエス・キリストの場合は、人間の父親が必要ありませんでした。なぜなら、神ご自身が、イエスの唯一の父であったからです。確かに、人間的に考えれば、男の人と性的な交わりをもたないおとめが子供を産むことは、全く不可能です。けれども、神が元々、この世界全体と同じように、人間を無から創造してくださったことを信じるならば、人間にとって不可能なことであるこのような誕生は、神にとって可能であるということを認めることは、それほど難しいことではないはずです。

本当に不思議なのは、マリアから生まれたイエスは、人間である母マリアと同じように人間であると同時に、神である父と同じように神であるということなのです。おとめであったマリアから生まれたイエスは、人間でありながら神であることによってこそ、「おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザ 7,14)という予言が実現されたのです。

「みことばは肉となられた」(ヨハ1,14)

男性の精子と女性の卵子、さらに神が創造してくださる霊魂が結合する瞬間に、新しいペルソナが創造されて、新しい人間が存在し始めます。けれども、イエス・キリストの場合は、違います。イエス・キリストはマリアの胎内に宿られた前に、つまり人間として存在し始めた前に、三位一体の一者、要するに神聖なペルソナとして、永遠から存在しておられたのです。そのために、マリアがイエス・キリストを胎内に懐妊したときには、新しいペルソナが創造されたのではなく、聖三位の一者である御子が人間になったということです。

父である神と同じ神性を所有しておられる御子が人間性をとられたこと、すなわち、イエス・キリストがマリアの胎内に、神ご自身である聖霊によって宿られたことについて、福音記者聖ヨハネは、「みことばは肉となられた」(ヨハ1,14)と書いたことから、この神秘は、「受肉」と呼ばれています。

真の神、真の人間であるイエス・キリスト

御子の受肉について考えるときに、勘違いをしないように気を付けなければならないところがあります。この勘違いとは、無限の神である御子は人間性をとられて、有限の人間になったことによって、神性を失ったとか、無限の神ではなくなったというような考え方です。実際に、御子は神性を失うことなく、人性を担われたのです。したがって、イエス・キリストは、神性において神である父と同一実体であるということです。

また、御子は人間性を受けて、それを神聖なものにされたとか、他の方法によって、一般の人間が所有している人間性よりも優れたものにされたというような勘違いをしないようにも、気を付けなければなりません。イエス・キリストは、罪を除いて(ヘブ4,15)、すべての面において私たちと同じ人間、つまり理性的魂と肉体とから成る真の人間です。したがって、イエス・キリストは、人間性において私たちと同一実体であるということです。

カトリック教会のカテキズムの中で、イエス・キリストについて、次のように教えられています。「553年のコンスタンチノープル会議は、『聖三位の一者であるわたしたちの主イエス・キリストには唯一の自立存在(またはペルソナ)だけが存在する』と宣言しました。したがって、キリストの人性におけるすべては、単に奇跡にとどまらず、苦しみも、死さえも、その固有の主体である神的ペルソナに帰すべきです。『肉において十字架につけられたかた、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストは、真の神、栄光の主、聖三位の一者です』」(カテキズム468)。

受肉の目的

神は、「私たちを愛して、私たちの罪をあがなういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(1ヨハ4,10)と聖ヨハネが教えています。要するに、神の子が人間になったのは、私たちを神と和解させて救うためであるということなのです。

人間が神に象って、神の姿として創造されたのは、愛によって神と結ばれるため、そして、この愛の絆が完成されることによって、神と一つになるためです。残念ながら堕罪によって人間は、神の愛を受け入れる可能性と、神を愛する可能性を失ったとともに、神が定めた人生の目的、つまり、神との一致にたどり着く可能性も失ってしまったのです。

御独り子は、人間になられたことによってご自分において神性と人間性を結ばれたわけですので、イエス・キリストにおいて神は、すべての人々のために求めたことを実現してくださったということになるわけです。そのために、受肉の業は、救済の業なのです。なぜなら、イエス・キリストと通して、神から離れていて、もはや神のもとへ戻ることのできなくなった人間のところに、神ご自身が近づき、罪の結果として神と人間との間に生じた無限の淵を「埋めて」くださいました。今、人間が三位一体の一者であるイエス・キリストの愛を受けることによって、神の愛を受け入れますし、イエス・キリストを愛することによって、神ご自身を愛し、人間性においてイエスと結ばれることによって、神ご自身と結ばれるわけです。結果的に、御子は人間になられたことによって、すべての人々が神と一致することを再び可能なものにしてくださったのです。

聖ヨハネが教えている通りに(ヨハ3,16;1ヨハ4,9)受肉によって神は、人間に関するご自分の愛を表してくださいました。また、神の子は、人間として、神の心に適う生き方をされることによって、すべての人々に神のもとに導く道、つまり、神との一致につながる生き方を表してくださったのです。

そのために、聖ペトロが教えているように(2ペト1,2-4)イエス・キリストを知ることによって、誰でも、神の愛と神の愛の交わりへの招きを知ることができます。さらに、イエスの愛に力付けられ、愛と信仰の絆によってイエスと結ばれた人は、永遠の死に導く道から離れる力と、神の望みに適う生き方をする力を与えられて、最終的に、「神の本性にあずからせていただくようになる」のです。実は、すべての人々が、神の本性にあずかること、すなわち、三位一体の神の完全な愛の交わりに永遠に生きるようになることこそ、神の御子の受肉、すなわち、人間になられたことの最終的な目的なのです。

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