四旬節第1主日B年 (マコ1,12-15) 

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」マコ1,14-15

イエスと洗礼者ヨハネが、全く同じ言葉をもってそれぞれの活動を始めました。けれども、同じ言葉を語っても、二人とも、全く異なることを述べ伝えようとしたのです。

まず、洗礼者ヨハネにとって、「神の国」というのは、神の裁きのことで、「神の国が近づいた」ということは、神の裁きの日が迫ってきたという意味でした。洗礼者ヨハネによれば、神は非常に厳しい審判を行いますので、苦しい罰を避けるために、神から裁きを受ける前に悔い改めて、良い実を結ばなければならないということでした。ヨハネはこの言葉によって人の心に恐れをもたらし、回心をさせようとしたわけです。

イエスにとって、「神の国」とは、人間の神との愛の交わりのことです。「神の国が近づいた」とは、ご自分の到来とともに、神との愛の交わりの可能性が近づいて、ご自分が成し遂げる救いのわざの結果として、この交わりがすべての人々にとって可能になるという意味でした。こうして、イエスは洗礼者ヨハネと違って恐れをもたらすことによってではなく、良い知らせを伝え、人間に希望を与えることによって回心へと呼びかけたわけです。

神ご自身がイエス・キリストにおいて、罪を犯したことによって神から離れた人々に近づき、イエス・キリストの愛と命による最高のいけにえによって私たちの罪をあがなって、全人類と和解してくださったがゆえに、人間の心の最も深い渇望が満たされることが実際に可能になったのです。ですから、神の国に入る可能性は報いではなく、神の無償の賜物なのです。しかし、この賜物を受け入れるために、私たちは神のみ旨に適わない生き方をやめて、イエス・キリストを自分の人生に受け入れることによって父である神を受け入れる必要がありますので、「神の国が近づいた」というイエスの呼びかけに励まされて、悔い改めることができますように祈りましょう。

全能の神よ、
年ごとに行なわれる受難節の典礼を通して、
わたしたちに、
キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。
日々、キリストのいのちに生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

灰の式後の金曜日 (マタ9,14-15)

「イエスは言われた。『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。』」マタ9,15

人間は、おいしく食べたり飲んだり、また、楽しく遊んだり、次々と欲しいものを手に入れたりすることによって、豊かに生きているような気持ちになれるかもしれませんが、実際にそのような騒がしい生活によって、自分の心の飢え渇きが見えなくなり、心の叫びが聞き取れなくなるだけで、結果的に自分自身を欺くだけなのです。

私たちは、以上の意味での「豊かな」生活をしているならば、少しゆっくりして、「貧しく」生きることによって静かになり、自分の心と向き合うことができますように。そして、人間の心と霊魂のために真の糧を与えることのできるイエス・キリストに従うことによって、真に豊かな人生を送ることができますように祈りましょう。

いのちの源である父よ、
わたしたちの回心の歩みを常に助け、支えてください。
受難節の務めを、真心をこめて果たすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

灰の式後の木曜日 (ルカ9,22-25)

「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」ルカ9,23

イエス・キリストが苦しみと十字架上の死を受けたのは、神の子であるという事実を否定しなかったから、また、すべての人々に対する神の無条件の愛を現し、この愛を人々に伝えるという使命を、どんな状況においても忠実に果たしていたからです。

洗礼を受けたことによって神の子どもになった私たちは、イエスに倣って、いつも神の子の身分に相応しく生きることによって、与えられた使命を果たすことができますように祈りましょう。

万物の造り主である神よ、
あなたの恵みでわたしたちの行いを導き、
一日の働きを支えてください。
すべての仕事があなたのうちに始まり、
あなたによって実を結びますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。