「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」マコ1,8
洗礼者ヨハネから洗礼を受けていた人は、まず自分の罪を告白し、回心を表明してから、水に浸されました。それは一種の「清めの儀式」であって、人の霊的な現実を変えることのできるようなものではありませんでした。洗礼者ヨハネはそれをはっきりと意識していましたので、自分より後に来られる方が、水だけではなく「聖霊で洗礼をお授けになる」(マコ1,8)と語ったわけです。
水による洗礼と違って聖霊による洗礼は、人間の霊的な現実を全く変えてしまうものなのです。父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けることは、受洗者を水に浸すのではなく、三位一体の神の命に「浸す」ということ、すなわち、この人を神に奉献するということなのです。イエスが十字架上でご自分自身を父である神に奉献されたことによって、すべての人々を罪の奴隷状態からあがなってくださいましたので、今洗礼を受ける人は、神の霊、すなわち、神の命に満たされて、神の子どもになります。聖パウロが言うように、この人は「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」(エフェ 2,19)ます。
私たちは、洗礼を受けることによって、確かに愛されている神の子どもになりましたが、必ずしも神の心に適う子になっているとは限りません。神の心に適う子、つまり愛されているだけではなく愛している子になるために、洗礼の時に与えられた聖霊の導きに従って生きる必要があるのです。
聖霊の導きに従って生きることは、自分の成長のために必要ですが、それだけではなく、洗礼の時に与えられた使命、つまり神の国を証しし、福音を宣べ伝えるという使命を、果たすためにも必要なのです。

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のようにご自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」マコ1,9-11
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」マタ2,1-2