待降節第1月曜日 (マタ8,5-11)

「すると、百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。』」マタ8,8

待降節の始まりに信仰の模範として与えられている百人隊長は、恐らく父である神のことを信じませんでしたし、イエスが神の子であり、世界の救い主であるということも信じなかったでしょう。けれども、彼はイエスの働きを見て、イエスに人を癒す力があるという事実を認め、この力を頼りにしたのです。

私たちも、百人隊長のように、自分の生活においてイエス・キリストの働きを見いだすことができますように。そしてイエスを頼りにすることによって、イエスのことをますます深く知り、愛するようになって、イエスと愛の絆で結ばれますように祈りましょう。

永遠の父よ、
御子キリストを待ち望む心をお与えください。
いつも目ざめて祈り、主が来られる時、
喜び迎えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

12月3日 待降節第1主日B年 (マコ13,33-37)

「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」1コリ1,9

待降節を迎える私たちは、待降節第1主日に読まれる御言葉によって、キリスト者としての生き方の基本を思い起こします。キリスト者の生活は、旅に出かけている主人から仕事を与えられた僕たちや、目を覚ましているように命じられた門番の生活に似ています。

私たちが与えられた仕事というのは、自分の生活によって神の愛を現し、神の国の証しをすることなのです。また、門番のように目を覚ましている目的は、いつでもキリストご自身を受け入れることなのです。キリストが約束してくださったように、キリストが世の終わりには、誰でもはっきりと分かるような形で来られますが、その前に目を覚ましている人たちだけが分かるような方法で、私たちのところに来てくださいます。もし、私たちがキリストのことを忘れて、他のことに夢中になっていて、キリストが私たちのところにいらっしゃっているのに気が付かずに、キリストを受け入れないならば、与えられた仕事を果たすことはできません。なぜなら、私たちはキリストと結ばれてキリストと共に生きているときだけ、神の愛に生きることができますし、神の国を証しすることができるからです。

私たちは、いつもキリストを自分の人生に受け入れ、いつもキリストと共に生きることによって、与えられた使命を果たすことができるだけではなく、最高の賜物を受け入れるための準備をすることができます。この最高の賜物というのは、キリストとの完全な愛の交わりであります。同時にそれは、永遠に続く三位一体の神との愛の交わり、また、救われたすべての人々との愛の交わりでもあります。言い換えれば、この最高の賜物というのは、完成された神の国に受け入れられることなのです。

全能の、神である父よ、
救い主を待ち望む心を呼びさましてください。
わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、
キリストと結ばれて、永遠の国を受け継ぐことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第34土曜日 (ルカ21,34-36)

「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」ルカ21,35-36

誰かを愛するとは、その人を高めるように善を行うことですが、この人のために希望を持つということでもあります。ですから、何の希望も持たずに、絶望して生きている人は、誰も愛していない、また、希望を見出さないかぎり、誰も愛することが出来ないと言えると思います。

イエス・キリストが再臨されたら、神の国と同時に私たち一人ひとりを完成してくださり、私たちが永遠に父である神の愛に生きるようになるという希望を新たにして、私たちは私たちの愛、神に対する愛、また、隣人と自分自身に対する愛が、強められますように祈りましょう。

すべてを治められる父よ、
み旨にしたがって生きる人に、
あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。
あなたからいただくすべてのものが、
救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。