「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」ルカ8,16
ともし火は、周りを照らしているときにのみ、つまり、自分のためだけではなく、自分以外のもののためにも存在しているときだけ、その存在に意義と価値があります。それと同じように、イエス・キリストの弟子、また、愛である神の子になった私たちの言葉や行い、私たちの人生全体は、私たち以外の人のためになっているときだけ、それには意味があり、価値があるのです。
ご自分のすべてを私たちと分かち合い、全力を尽くして私たちを生かしてくださる父である神に感謝しながら、父である神に倣って、いただいているすべての恵みを他の人と分かち合うことによって、父である神ご自身の愛の素晴らしさを示し、多くの人々の人生を照らすことができますように祈りましょう。
全能永遠の神よ、 あなたは聖なる司祭ピオをキリストの十字架の恵みにあずからせ、 その奉仕をとおして神のいつくしみの偉大さを表してくださいました。 聖人の取り次ぎによって、 わたしたちがキリストの受難に固く結ばれ、 復活の栄光へと導かれますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
いつくしみ深い父よ、 あなたはわたしたちを選び、光の子としてくださいました。 わたしたちが罪のやみに迷うことなく、 いつも真理の光のうちに歩むことができますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。