7月2日 年間第13主日A年 (マタ10,37-42)

「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」マタ10,37–42

イエス・キリストはすべての人の救いのために、すなわち、すべての人々が父である神の愛の招きに応じて、神の愛を受け、神に自分の愛をささげることによって、神と結ばれ、永遠に神との愛の交わりに生き、神の至福にあずかるために十字架を担って、十字架上でご自分の命をささげてくださいました。このような死を含めてイエス・キリストの人生全体を見ると、愛するとは、自分の命を含めて自分のすべてを、他の人の真の善と真の幸福のためにささげることであるということが分かると思います。

自分の十字架を担ってイエスに従うとは、イエスと同じように、どんな状況においても愛に生きること、つまり、順境においてだけではなく、逆境においても、愛に喜びが伴うときだけではなく、愛に悲しみや苦しみが伴うときにも愛に忠実に生き、自分の身内や自分のことを愛して、自分のために善を行う人のためにだけではなく、他人や自分を憎んで、悪を行う人のためにも、できる限りの善を行い続けることなのです。キリストの弟子は、このように生きるときだけ、愛において成長し、完成されて、イエスご自身と同じような人間となり、イエスの弟子としての目的に辿り着くことができる、つまり、父である神と一つになることができるという意味で、「イエスにふさわしい」人なのです。

このような生き方は非現実的なものや、非常識的なものに見えても、宇宙万物の創造主の御ひとり子として人間のことを誰よりもよく知っておられると同時に、人間を誰よりも強く愛しておられるイエス・キリストが、それを私たちに求めておられるならば、人間にとって可能な生き方であるだけではなく、最高の生き方でもあるという確信を持つことができるのです。

ますます多くの人々が、イエスを信頼して、イエスの呼びかけに応え、イエスのように生きることによって父である神の愛の招きを受け、神ご自身と神の招きを受けた他の多くの人々とともに、この世においても、死を超えても、完全な愛の交わりのうちに永遠に生きることができますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたはわたしたちを選び、
光の子としてくださいました。
わたしたちが罪のやみに迷うことなく、
いつも真理の光のうちに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

6月30日 年間第12金曜日 (マタ8,1-4)

「一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」マタ8,2

重い皮膚病の患者が認めた通りに、イエスには、私たちを清くする力、つまり、私たちを罪の支配下から解放し、神と和解させ、神との愛の交わりに導く力があるのです。

ますます多くの人々が、心を開いて、イエスがご自分の受難と死によって成し遂げてくださった救いの恵みを受け入れ、父である神との正しい関係に入り、イエスの導きに従うことによって、神との愛の交わりを深めて行くことができますように祈りましょう。

6月29日 聖ペトロ 聖パウロ使徒 (マタ16,13-19)

「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』」マタ16,16-18

今日、私たちは全世界に広まっている教会と共に、教会の礎となった聖ペトロと聖パウロの祭日を祝う中で、聖ペトロは、自分の期待や感情に振り回されたり、自分を守るためにイエスとの関係を否定したりした人で、一方、聖パウロは、初代教会を迫害することによって、イエス自身を迫害した人であったということを思い起こせば、キリストの愛の偉大さと、人の心を変えるキリストの愛の力強さを、実感できるのではないかと思います。

キリストの愛を頼りにして、私たちは聖ペトロと聖パウロのように、力を尽くしてイエスに従うことによって、いろいろな束縛から解放されて、キリストの愛に満たされ、与えられた使命を果たすことができますように祈りましょう。

すべてを治められる神よ、
使徒ペトロとパウロの殉教をたたえて祈ります。
教会が、信仰の礎となった使徒の教えを受け継ぎ、
その真理を世界にあかしすることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。