四旬節第2主日・A年 (マタ17,1-9)

「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」マタ17,4

ペトロにとってキリストの栄光の姿を見ることは、最高の幸福の体験だったでしょう。おそらく、彼が三つの仮小屋を建てる提案をしたのは、この幸せの時を少しでも長くするためだったのではないかと思います。けれども、許可をもらう代わりに、この場所を離れて、イエスに聞き従うように命令されたのです。

喜ばしい時を伸ばしたいという望みは、悪いものではないし、どちらかというと自然なことでしょう。それならどうして、ペトロは、この望みに従うことを許されなかったのでしょうか。このことが分かるためには、まず、人がなぜ喜ばしい時を伸ばしたいのか、なぜ幸せと感じている時を手放したくないのかということについて、考える必要があると思います。

一つの可能な理由とは、今の喜び、今の幸せが最高のもので、これだけで充分、これさえ保つことができれば他に何も要らないという考え方です。けれども、そのような考え方の裏には、大きな心配が隠れている可能性があります。つまり、これ以上に喜ばしいことがあり得ないとか、これ以上に素晴らしいことが手に入れられないというような絶望感なのです。

味わっている喜びや幸福は、自分の働きの結果であるとか、幸運のせいとか、偶然に手に入ったものであると考えている人の場合、以上のような心配は不思議ではないでしょうが、それは、神がくださった賜物であると信じている人の場合には、非常に大きな問題なのです。なぜなら、このような心配は、この人が神の力や愛を信頼していないということを表しているからです。

神には無限の力がありますので、いくら素晴らしい賜物を与えてくださっても、これ以上に素晴らしい賜物を与えることができます。神の愛も無限のものですので、与えた賜物以上に素晴らしいものを与えたいと望んでおられます。けれども、人間は神の力や愛を疑って、心配したり、いただいた賜物に執着したりすることによって、自分の心を閉じてしまいますので、いただいた以上の賜物を受け入れることができなくなるのです。

聖なる父よ、
あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。
みことばによってわたしたちを養ってください。
信仰の目が清められて
あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

四旬節第1主日A年 (マタ 4,1-11)

「すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」マタ4,10-11

神に象って、神の似姿として創造された人間は、自由意志を持っていても、自ら何が善であるか、何が悪であるかということがはっきりとは分かりません。ですから、正しい選択をすることによって人生の最終的な目的に近づくために、つまり愛による神との完全な一致に向かって歩むために、正しい道、正しい生き方を教えてくださる案内者を必要としているのです。

ご自分の命にあずかるために、また、愛によって結ばれて、ご自分と一つになるために人間を創造してくださった、神の言葉を信頼しているとき人間は、自分をこの目的に導く道を知ることができるだけではなく、この道を歩むために必要な力も与えられて、人生の最終的な目的に向かって歩むことができます。

けれども、神を信頼する代わりに、自分と同じように無知な人を信頼したり、「嘘の父」で、人間を憎んでいる悪魔を信頼したりするとき、目指している目的に近づくことができないだけではなく、この目的から段々と遠ざかるし、自分の人生の旅は絶望的なものになってしまうのです。

私たちは、イエスと同じように、どんな状況においても父である神を信頼して、神との愛の交わりの内に生き、御言葉に従うことによって、私たちを惑わそうとしているいろいろな誘惑に打ち勝ち、主イエスと共に神の国に向かって、つまり愛による神との完全な一致に向かって、力強く歩むことができますように祈りましょう。

全能の神よ、 
年ごとに行なわれる受難節の典礼を通して、 
わたしたちに、
キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。 
日々、キリストのいのちに生きることができますように。 
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。