待降節第3主日A年 (マタ11,2-11)

「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」マタ11,4-6

誰しも喜ぶことがあると思いますが、その喜びについて考えたことがありますか。たとえば、自分が何のときに喜ぶのか、何のことで喜ぶのか、つまり、自分の喜びの原因は何であるか、自分を喜ばせるものは何であるかということについて考えたことがありますか。

恐らく、原因に基づいて喜びを二つのグループに分けることができると思います。一つは、自分の期待や望みが適えられることから沸き起こる喜びです。もう一つは、何か思いもかけない、美しいものとの出会いや、自分が想像も期待もしなかった素晴らしい贈り物をいただくことがもたらす喜びです。

第一のグループの喜びを味わうためには、自分の期待や望みを満たせばいいわけですので、この喜びを得るために自分から進んで何らかの働きをすることができます。けれども、第二のグループの喜びを味わうためにできることは、自分の想像力や望みによって視野が狭くならないように注意しながら、意外な贈り物を見失わないために絶えず目覚めていて、忍耐強く待つことだけなのです。

第一のグループの喜びはある程度まで人間が管理できるものですので、人気のあるものですが、第二のグループの喜びは全く管理のできないものですので、それを求める人は少ないでしょう。けれども、第一のグループの喜びは、私たちの想像力や能力に制限されているものですし、それを探求している人たちは、他の人を操ったり利用したりして、他人を傷つけることがあり、最終的に自分を傷つけることが沢山あります。しかし、第二のグループの喜びは、私たちの想像力を超えるものであり、全能の神が与えてくださる無限のものなので、誰にも害を与えることがなく、人間の心を広くし、人間を高めるものなのです。

さて、私たちの救い主イエス・キリストに信頼して、イエスが私たちに与えたい贈り物を受け入れることができるように、私たちは、自分たちが求めているものにこだわることなく、心を開いて、目を覚まして、忍耐強く待つことができますように祈りましょう。

喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしがちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、
この救いの神秘を祝うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第2主日A年 (マタ3,1-12)

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」マタ3,2

人間は個人として、また、人類全体として、平和とか幸せとかを求めて、そのために一生懸命に努力しています。けれども、なかなかそれを実現することができないのが、私たちの現状ではないでしょうか。そういった現状の要因はいろいろあるのでしょうが、その内の一つは、人間の傲慢ではないかと思います。失敗の繰り返しの長い歴史があっても、人間はなかなか自分の限界を認めようとしませんし、いわんや賢くなることもないのです。この限界とは、人間が自分の力だけでは、心の中で求めている平和や幸福を得ることができないがゆえに、すべての人々を愛し、すべての人のために永遠に続く平和と幸福を求める父である神、創造主であり、全能者である神の助けを、私たちは必要としているということなのです。

自分の限界を認識した上に、神の助けの必要性を認めて、この助けを願い求め、それを受け入れるために心を開くことこそ、一人ひとりにとって、また、人類全体にとって、最も必要な回心であり真の知恵なのです。

父である神は、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存じ(マタ 6,5-8)ですので、もうすでにイエス・キリストを通して、真の平和と幸福のために必要なものをすべて準備してくださいました。ですから今、イエス・キリストを信じることによって、つまり、イエスの言葉を受け入れ、イエスの模範に倣って生きることによって、私たちは永遠に続く平和と幸福に向かって歩むことができると同時に、その実現に協力し貢献することもできるのです。

恵み豊かな神よ、
御子を迎えに急ぐわたしたちが、
あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、
キリストに結ばれることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。