待降節第3月曜日 (マタ21,23-27)

「彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。」マタ21,25-27

イエスの質問に答えるのを避けた祭司長たちのように、真理を恐れていろいろな問題を避けている人たちは、いつまでも自分の欲望や感情、または、罪に支配されますので、そんなつもりがなくても自分の滅びを招くのです。

私たちは、イエス・キリストが現してくださった神の愛といつくしみを頼りにして、都合が良くても悪くても真理を、特に自分自身についての真理を、恐れずに受け入れることができますように。そしてこの真理によっていろいろな束縛から解放されて、真の命に導く道を歩み、その道を多くの人に示すことができますように祈りましょう。

全能の神よ、
いつくしみをもってわたしたちの祈りに耳を傾けてください。
御子イエズスの降誕の光によって、
わたしたちの心のやみが照らされますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第3主日C年 (ルカ3,10-18)

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」ルカ3,15

民衆はメシアを待ち望んでいたのに、メシア・救い主が実際に来られたとき、彼を喜んで迎え入れたのではなく、「十字架につけろ」と叫んで、ローマの兵士の手によって殺してしまったのです。それは、非常に悲劇的なことでしたが、私たちの人生においても、同じようなことが起こっていないでしょうか。

人間は、それをはっきり意識していなくても、誰かに意図的に接しようとしているとき、必ずこの人に関して何か期待を持っているものなのです。非常に多くの場合、この期待は出会った人自身や、この人との出会いを評価する基準になっています。この人が、私たちの期待通りに話したり、期待通りに振る舞ったりしたならば、私たちは満足や喜びを感じて、この人を高く評価します。しかし、客観的にこの人が私たちに良いことをしても、それが私たちの期待したことでないならば、がっかりしますし、この人やこの人がしてくれた良いことを受け入れることができないだけではなく、この人を非難したり攻撃したりすることさえあります。このような精神の働きに従って、当時の人々がイエスを排斥してしまったのは、イエスが悪いことをしたからではなく、この人たちがメシアに対して持っていた期待にイエスが応えず、彼らの思う通りには振る舞わなかったからなのです。

私たちは、この人たちと同じような過ちを犯さないよう、キリストを迎え入れる準備のために与えられている待降節の後半を生かし、自分の心を支配しているいろいろな思い込みや勝手な期待、また、余計な執着や拘り等を手放して、私たちのために最善のことを求め最善のことを行ってくださるイエス・キリストを、ありのままに受け入れることができますように祈りましょう。

喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしがちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、
この救いの神秘を祝うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。