4.「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『この人はエリヤを呼んでいる』と言う者もいた。」マタ27:45-47; マコ 15:33-35

 誰かが本当に愛しているならば、どんな状態においても、すなわち、喜ばしい時も、悲しい時も愛する人と一緒にいたいと望みます。愛する人のそばにとどまることが苦しみになっても、この人を離れません。イエスは、どんな時も父である神と共にいました。同じようにマリアもいつもイエスと共にいました。

 イエスは、父である神との密接な交わりを表すために、いつも神のことを「アッバ」、つまり「愛する父」と呼びました。けれども、今他の人と同様に「神」という正式的な呼び方を用います。ご自分の喜びであり、ご自分に対して敵意をもった人を含めてすべての人を愛するために必要な力をもたらしていたこの親しみを感じなくなっています。それだけではなく、父である神がご自分を見捨てたように感じます。父である神との愛の交わりを最も大切な宝物としていたイエスにとって、神から見捨てられたように感じるということは、今までのどんな苦しみよりも辛い苦しみになっているはずです。イエスの大きな叫びがこの激しい苦しみを表しているのです。

 罪を犯すことによって人間は、愛であり、命の与え主である神から離れてしまいます。罪の最終的な結果というのは、神のもとに戻れなくなること、神の愛を受け入れることができず、神との愛の交わりの内に生きることが不可能になるということなのです。それは、永遠に続く、何の希望もない孤独を意味します。イエス・キリストは、私たちをこのような罪の最終的な結果から守るために、罪に満ちた私たちの現実に入ってくださいました。神によって見捨てられたように感じたことは、イエスが私たちの罪の暗闇の最も暗いところ、最も孤独なところに入ってくださり、その中にも、神の無条件の愛と神の栄光を現し、私たちを神のもとに導くためにご自分の手を差し伸べてくださったことを意味します

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