7.「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」ルカ 23:44-48

 イエスはご自分の最後の言葉を父である神に語ります。その際、神のことを再び「父」と呼びます。それは、父である神との親しい交わりの感覚が戻ったということではなく、誠実な方である父はご自分から一度も離れることなく、ずっとそばにいてくださるという信仰をもって、父である神によって見捨てられているような感覚に打ち勝って、父に対する信頼に満ちたイエスはご自分の霊、ご自分の愛と命、ご自分自身のすべてを「愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ロマ8:28)方のみ手に委ねる最終的な決定されたということなのです。

 イエスは、最後まで父である神に信頼し続けられたからこそ、イエスにとって死は残酷なものでありながらも、滅びではなく、神の国への門、永遠に続く喜びと平和に満ちた父である神との愛の交わりに戻る道となったのです。

 自分の小さな安定を守り、他人を苦しめることによって手に入れたものを保つために、永遠の愛を与えることのできるキリストを殺すということは、人間の愚かさの頂点なのです。同時に、神の子イエス・キリストの殺害は、人間が犯した最も大きな罪です。この罪は、すべての人々の永遠の死、つまり、完全に神から離れ、孤独と絶望の内にいつまでも生きるというような結果を生み出すはずでした。けれども、イエスはすべての人々のために赦しを願った上に、ご自分の霊を父である神のみ手に委ねたことによって、この罪をいけにえに変え、ご自分の苦しみを愛の奉献に変えてくださったのです。それが故に、イエスの死は、人類の神との縁を切るものではなく、人類の神との和解を実現するものになったのです。その意味で、聖ペトロが語っている通りにイエスの傷によって私たちが癒されました。(1ペト2:24)イエス・キリストはご自分の愛と忠実によって、呪いと罰のしるしであった十字架を祝福と恵みのしるしに変え、死と憎しみのしるしであった十字架を命と愛のしるしに変えてくださいました。そのために、その十字架において私たちの復活と永遠の命への希望が輝くのです。

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