5.レクティオ・ディヴィナ

(霊的な読書)

霊的な読書とか、神聖な読書という意味のレクティオ・ディヴィナ(ラテン語:Lectio Divina)は、聖書の読書に基づく祈り、また、神の言葉の黙想の方法として、もうすでに教父の時代、つまり、4,5世紀から活用されていました。12世紀のカルトジオ会の修道士グイゴは、レクティオ・ディヴィナの基本的な四つの部分、ないしは段階を記述しています。その段階とは、第1段階:読書(lectio)、第2段階:黙想(meditatio)、第3段階:祈り(oratio)、第4段階:観想(contemplatio)です。

第1段階:読書

この段階の目的は、黙想の対象となっている聖書の個所を理解することです。そのために、まず、この個所をゆっくり読みます。この文書の表現形式(出来事の叙述や歴史的な物語とか、説教やたとえ話とか、詩など)を意識して、読んだ本文に対して可能な質問をし、その中で答えを探します。例えば、 何が(起こっているか、取り扱われているか、課題となっているか)、誰が(登場するか、対話するか、話題となっているか)、何を(話すか、するか)、どこで、また、いつ(この出会いや出来事が起こっているか)、どのように(反応するか)、どのような感情が表現されているか、何故かなどの質問をして、回答を試みるのです。

特に、今まで何回も読んだために良く知っている聖書の箇所を読むときに、細かいことに関する、「当たり前」と思われるような質問をすることによって、今まで気付かなかったことを発見することも、本文をより深く理解することもできるのです。

また、自分の質問に対する答えを、本文の中に見出せないことがあります。それは、この個所が伝えているメッセージを理解するためには、知らなくてもいいものであるかもしれません。それとも、この書の最初の読者にとって、常識的なことであって、よく知られているために書く必要もないようなことであったかもしれません。ですから、多くの場合、読んでいる文書を理解するために、できるだけこの書の最初の読者の立場になって、この読者がこの文書をどのように理解したかということを考える必要があります。そのためには、その文書が、いつ、どのような状況におかれた人のために書き記されたかということを知ることが必要です。例えば、その文書がユダヤ人を対象として書かれたものであるなら、イスラエルの歴史や旧約聖書の知識などを土台にして、彼らの世界観、表現方法なども、考える必要があるのです。多くの場合、聖書辞典や注解書などを読んで、勉強する必要があります。

第2段階:黙想

黙想の目的は、読んでいる個所の中に、神の言葉を見出すこと、つまり、この聖書の個所によって神が自分に伝えようとしておられることや与えてくださるメッセージを、読み取ることです。それが、自分にとって、どのような意味を持つか、どのような注意や励ましや戒めや導きなどを与えてくださっているかについて、考えることです。しかし、神の言葉がなかなか見出せないときには、次のように感情や記憶や理性や想像などを用いて、段階的に黙想することができます。

・感情の活用

扱っている個所を再び最初から最後までゆっくり読みますが、今回は、文書を一つずつ読んでから、短い間をとって、自分の心の動きを調べます。自分の心の動きを調べるとは、浮かんだ感情、例えば、喜び、悲しみ、不安、恐れ、平安、退屈、無感情などを意識するということです。

・記憶の活用

何か心の動きを見出したら、そこで読書を止めて、浮かんだ感情を見つめます。この感情は何(言葉、場面、人の反応)によって起こされましたか。どうしてでしょうか。どんな体験や出来事や出会いなどが思い起こされましたか。それと関連するもの(出会った人、行った場所、見た映画、読んだ本など)は、何でしょうか。

・理性と想像の活用

このみ言葉や自分の心の動き、また、思い出した体験や意識した他の記憶によって、神は今の(こんな現状にいる、こんな選択に直面している、こんな問題で悩んでいる)自分に何を伝えたいのでしょうか。何を示したいのでしょうか。どんな導き、使命、励まし、注意などを与えようとされているのでしょうか。

第3段階:祈り

たとえ祈る人がそれをはっきりとは意識していなくても、祈りはいつも、神の働きや神の呼びかけに対する人間の応答です。レクティオ・ディヴィナは、このことを特にはっきりと示します。 要するに、この段階は、前の段階であった黙想のときに見出した神の言葉に、応答することです。黙想によって、神から特別な恵みをいただいたということに気付いたなら、祈りは、感謝になります。黙想を通して、イエス・キリストのすばらしさの新たな側面が示されたなら、祈りは、賛美になります。このように自分が聞き取った神の言葉によって祈りは、感謝と賛美の外に、お詫び、願い、約束、決心、また、実際の行動などにもなりえるのです。

第4段階:観想

観想とは、感情、記憶、理性と想像などのような能力を超えて、静けさの中で神の御前に憩うことです。読書、黙想と祈りの段階で、私たちは様々な能力を用いて、神の言葉を理解するよう、また、読み取った神の言葉に応えるよう努力します。けれども、現実には、自分の考えとか、望みや欲求を神の言葉として受け取り、神に従っているつもりが、いつの間にか自分自身の道を進んでいることになることも、決して珍しくありません。つまり、故意にではなくても、自分の働きによって、神の言葉や神の働きを妨げてしまうことがあるということです。確かに、それは一つの問題ですが、この問題をあまり大きく、例えば、黙想に意味がないと考えて、それを諦めるほど大きくする必要はありません。なぜなら、後で、自分の生き方とその結果を正直に振り返るならば、自分の間違いに気付くことができるからです。そして、自分の間違いを素直に認めた上で、それを繰り返すことがないように気を付けるならば、そのような過ちを犯すことが段々と少なくなるからです。

けれども、真の観想において私たちは、自分の意識を神に向けながら神の前に静かに留まり、神の働きを承諾すること以外に何もしませんので、神の働きを妨げることもないのです。そのために、観想において神は、私たちの内で自由に働くことができますので、私たちは、神の望みとおりに、段々とイエスの姿に変えられて行くのです。もちろん、観想の時に人間は、理性や感情などのような能力を用いないので、読書や黙想や祈りと違って観想は、私たちが記憶できるような体験にはならないのです。静けさの中で過ごす時間は、本当に観想であったかどうかということは、自分の生き方の変化、特に他の人に対する態度の変化によってしか分かりません。要するに、私たちの生き方が、段々とイエス・キリストの生き方に近づいているならば、神の御前に過ごす時間は、本当に観想であったという確信を持つことができるのです。

観想は、人間がそれをしたいからできるようなことではありません。観想は、イエス・キリストによる神との関わりの発展の結果であり、神の恵みなのです。すべての人々を愛してくださり、すべての人々の愛を求めておられる神は、確かにすべての人々にこの恵みを与えたいと望んでおられるのです。けれども、神が、この恵みをいつ与えてくださるかということは分かりません。この恵みを受け入れるためにできることと言えば、自分の心を準備するということだけなのです。神の言葉を黙想したり、理解したことを実行したりすることによって、イエス・キリストとの交わりの内に生きながら、「忙しい祈り」、つまり、様々な能力を用いて、いろいろな働きをした後に、静けさの中に留まり、意識を神に向けることは、心の優れた準備に外ならないのです。

レクティオ・ディヴィナは、読書以上、黙想以上のこと、すなわち、生きた神の言葉であるイエス・キリストとの交わりです。他の人との関係の場合と同じように、この交わりから喜びや平和などのような望ましい感情、また、新しい思想や気付きなどを得ることよりも、この交わり自体に忠実であることが大事なのです。したがって、レクティオ・ディヴィナが期待どおりの実りをもたらさないと思っても、それを忠実に続けること、つまり、できるだけ毎日、最初から決めた(イエスに約束した)時間に行うことによって、この交わりが段々と深まってゆくのです。初めのうちは、考えることや、感じること、また、話すことがほとんどですが、祈りが進歩すればするほど、すなわち、イエスとの交わりが深くなればなるほど、沈黙の時間が長くなるのです。一生懸命に聖書の言葉を考えたり、それを分析したりする以上に、沈黙の中で、神の働きを受けることによって、神の言葉は理解できます。また、自分の力を発揮することによってよりも、沈黙の中で、神からいただいた力によって、聞き取った神の言葉を忠実に実行することができるのです。

このように、私たちが、聖書を尊敬し、聖書を読み、研究し、黙想するのは、この本を知るためというよりも、この本を通してイエス・キリストを知るため、つまり、イエス・キリストと愛の絆によって結ばれ、イエスに従って生き、愛の交わりの完成である完全な一致に辿り着くためなのです。カトリック教会が教えているとおり、「キリスト教信仰は『書物の宗教』ではありません。キリスト教は神の『ことば』の宗教であって、そのことばは、『記されているだけの無言のことばではなく、受肉して生きているみことばです』。聖書が死んだ文字となることのないように、生ける神の永遠のことばであるキリストが、『聖書を悟らせるために』聖霊によってわたしたちの『心の目を開いて』くださることが不可欠です」(カテキズム108)。