2.「父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。」

イエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストが神によって遣わされた救い主であるという事実を認めるだけではなく、イエスの素晴らしさに憧れて、イエスを愛し、イエスとの親しい交わりのうちに生きることなのです。ですから、聖パウロが言っているように、キリスト者にとってイエス・キリストを知ることは、何よりも素晴らしくて、何よりも価値のあるものなのです(フイリ3・8)。イエス・キリストを知った人は、イエスのことをもっと深く知りたいと望んでいるだけではなく、イエスのことを他の人に知らせたいと望んでいるのです。

使徒信条においてイエスヘの信仰の告白は、先ず、イエスの神秘を表すイエスの主な称号(呼び名)から始まります。

2 ・1 イエス

「イエス」は、ヘブライ語で「神は救う」という意味です。父である神ご自身がお選びになったこの名は、イエスの身分とイエスの使命を表しています。神は、人間となられたその御ひとり子を通して、「自分の民を罪から救」ってくださる(マタ1・21)、つまり、罪によって神から離れた人類を「ご自分と和解させ」てくださる(2コリ5・19)ということなのです。イエスにおいて神ご自身が私たちのところに来てくださり、私たちの間に留まってくださるからこそ、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使4 ・12)

イエス・キリストは、ご自分の命をかけて与えられた使命を果たしてくださったために「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フイリ2 ・9-11 ) したがって、イエスの名は、私たちに父である神に近づく勇気を与えると同時に、あらゆる悪に打ち勝つために必要な力の源となっているのです。

2 ・2 キリスト

「キリスト」は、ヘブライ語の「メシア」、つまり「油注がれた者」のギリシャ語の訳です。イスラエルの歴史の中で、神によって選ばれて、特別な使命を与えられた人は、神の名によって油を注がれることによって、聖別されました。それは、王、祭司、それから例外的に預言者でした。神の国を実現するために神が遣わすと預言された方は、特別な意味で「油注がれた者」つまり、メシアになるはずでした。この方の上に、普通の油ではなく、神の霊が注がれることによって、同時に王として、祭司として、また、預言者として聖別されることになっていたのです。「メシアとして、永遠の聖別については、地上での生活中には、ヨハネから洗礼を受けられたときに明らかにされました。そのとき、『神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました』(使10-38)。それは、メシアとして『このかたがイスラエルに現れるため』(ヨハ1-31)でした。イエスは、行いとことばとによって『神の聖者』として認められることになりました。」(カテキズム438)このように神の約束と同時にイスラエル人の希望を完全に実現したのがナザレのイエスであったと信じる人々は、イエスをメシアと呼ぶようになったわけです。結果的に、ギリシャ語の世界でメシアを意味する「キリスト」は、イエスの呼び名になりました。その意味で、「キリスト」は、イエスの名字ではありません。イエスをキリストと呼ぶことは、イエスこそが神が約束してくださったメシアであるという信仰の宣言なのです。

イエスの時代の多くの人々は、メシアの使命を政治的に理解していました、つまりメシアがイスラエルの王になって、他の王たちと同じように軍隊力に基づいて支配するようになると思っていました。けれども、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタ20・28)と語ったイエスご自身は、昔の預言者が表したように、ご自分の命をささげることによって、すべての人々の罪をあがなうことこそ、ご自分の使命であると確信を持っていたのです。「イエスの王権の真の意味は、十字架の上で初めて明らかにされたのです。さらに、復活後に初めて、そのメシアとしての王権がペトロによって神の民の前で宣言されました。『イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。 』(使2 ・36)」(カテキズム440)

2 ・3 父のひとり子

旧約聖書において、天使、選ばれた民、また、その王は、「神の子」と呼ばれています。そのときの「神の子」という称号は、神と特別に親しい関係をもたらす養子身分を表しています。けれども、イエスの場合は、この称号は違う意味を持っています。「イエスはご自分を、父を知る「子」、これまでに神がご自分の民に遣わされた「しもべたち」とは異なる者、天使たちにすらまさる者といわれました。ご自分の子としての身分を弟子たちのそれと区別しておられます。そのため、「だから、あなたがたはこう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』」(マタ6・9)と命じられた場合のほかは、決して「わたしたちの父」とはいわれませんでした。さらには、「わたしの父であり、あなたがたの父であるかた」(ヨハネ20・17)といい、この区別を強調しておられます。 」(カテキズム443)

イエスは、洗礼者ヨハネから受けた洗礼と変容の際に父である神によって「わたしの愛する子」を呼ばれたとき、また、ご自分自身のことを「神のひとり子」(ヨハ3・16)と呼んだときに、永遠から存在されていること、また「すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体」(ニケア・コンスタンチノープル信条)であることが啓示されました。

2 ・4 主

ユダヤ人たちは、聖書において「ヤーウェ」という神がモーセに現してくださった神の名を見たときに、この神聖な名に対する尊敬を表すために、「ヤーウェ」と読む代わりに「アドナイ」と読みました。「アドナイ」とは、主を意味するヘブライ語の言葉ですが、神には全世界のすべての民族に対する主権があることを現すために、ユダヤ人たちが神を呼んだ名です。旧約聖書は、ギリシャ語に翻訳された時に、ヘブライ語の「ヤーウェ」は、主を意味する「キリオス」ということばに訳されました。その時以来、この「主」は、イスラエルの神の神性を表す通常の名となったのです。

「イエスご自身、詩編110の意味についてファリサイ派の人々と議論されたときにはこの称号を暗にご自分に当てはめられましたが、使徒たちに語られたときには明らかに、これをご自分に帰しておられました。公生活中、自然界、病気、悪霊、死、および罪を制圧されたイエスのわざは、神としての主権をあかしするものでした。」(カテキズム447)

ギリシャ語で書かれた新約聖書は、「キリオス」という称号を父である神に関してだけではなく、イエスに関しても用います。キリスト者たちは、初めからイエスを主と呼ぶことによってイエス・キリストを神として認めていたのです。

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