6.「天に昇って、全能の父である神の右の座に着き」ました。

復活したイエス・キリストはマグダラのマリアに現れた時、次のように言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上ると。』」(ヨハ 20・17)このイエスの言葉は、救いの計画を実現するために残されたわざを表しています。それは、「天に昇る」こと、つまり、神の御独り子が元々おられた「ところ」に戻ること、「神の右の座に」着いて、再び神の栄光、神の権威にあずかることでした。

考えてみれば、「天から降った」ときの御独り子と、今「天に昇る」御独り子には、異なるところがあります。それは、何かというと人間性なのです。父と聖霊と同じ神性を所有しておられる御独り子は、受肉の神秘、つまり人間になったことによって、神性の他に人間性を所有するようになりました。確かに死ぬことによって御独り子は、人間性を失いましたが、復活することによって、それを取り戻しただけではなく、もはやそれを失うことなく、永遠に自分のものにしたのです。

どうして、救いのわざを実現するために、御独り子の受肉、それから、死と復活だけではなく、昇天まで必要だったのでしょうか。それは、神の御独り子がイエス・キリストとして、つまり神性と人間性という二つの本性を所有している唯一のペルソナとして、父である神のもとに戻ったことによって、三位一体の内面的な命の中に人間性を「持ち込み」、神と人類との間に永遠に切れることのない繋がりを作ってくださったからです。この繋がりこそが、新しい、永遠の契約であると言えるでしょう。この意味での契約が結ばれた時以来、すべての人々は、三位一体の神と一体になることが可能になったのです。というのは、イエスが語られたとおりに、「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(ヨハ3・13)ということです。つまり、愛によって神と結ばれるために、また、この愛の絆が完成されることによって神と一つになるために創造されても、罪を犯すことによって神から離れた人間は、自分の力だけでは、神のもとに戻ることができません。言い換えれば、神との正しい関係を失った人は、いくら正しい生活をしたとしても、自分自身を救うことができないということなのです。それから、イエス・キリストの死と復活によって、人間が犯した罪の結果である死が滅ぼされて、私たちが復活するようになっても、イエス・キリストが昇天をされなかったならば、永遠に生きるようになった人間は、神の命にあずかることができなかったので、永遠に人生の目的に到達することなく、どちらかというと、不幸に生きたでしょう。それなら、復活しない方がましだったでしょう。

「しかし、キリストは、人間の手で造られた、本物の模型にすぎない聖所にお入りになったのではなく、天そのものにお入りになったのです。そして今、神の前に立ってわたしたちのために執りなしておられるのです。」(ヘブ 9・24)人間性を持って、神との一致に入ったイエス・キリスト自身が、「新しい、永遠の契約の唯一の祭司」、人間と神との間の唯一の仲介者となっています。天において私たちのために執りなすことによって、つまり私たちを神と繋げることによってイエス・キリストはご自分の祭司職を果たしておられるということが言えます。今私たちは、私たちと同じ人間性を所有しておられるイエス・キリストと繋がることによって、神ご自身と繋がることができます。さらに、イエス・キリストと一つになることによって、神ご自身と一つになり、神の本性、神の愛と命、神の栄光と至福にあずかることができるのです。それこそ、父である神が私たち一人ひとりのために最初から求めておられた救い、神の御独り子が、受肉、十字架上の死、復活と昇天によって可能にしてくださった救いなのです。

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