11.からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。

創造主である神によって不死に定められた人間の死は、人間が犯した罪の結果であって、神の意図に反するものです(カトリック教会カテキズム1008)。人間は、死によって支配されている限り、神が人間のために定めてくださった最終的な目的に達することができず、幸せになることもできないのです。その意味で、死こそが、「打ちかつべき『最後の敵』」(1コリ15・26)となっているわけです。幸いに、イエス・キリストは、私たちをこの上なく愛してくださり、愛の最高の奉献となったご自分の死によって死に打ち勝ったゆえに、イエスと結ばれている人にとって死は、もはや自分の破壊ではなく、永遠のいのちへの門になっているのです。ですから、キリストを信じている私たちは、自然に死を恐れても、この恐れによって左右されずに生きることも、大きな希望を持って自分の死を迎えることもできるのです。

父である神は、私たちのために準備してくださった「天国」とも言われている永遠のいのちは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(1コリ2,9)、つまり、人間の理解と想像をはるかに超えるものです。けれども、この現実を完全に理解することも、想像することもできなくても、神ご自身がみことばによって教えてくださったことに基づいてそれをある程度まで、描くことができます。永遠のいのちに受け入れられた人は、先ず、キリストと共に永遠に生きるようになります。この人は、キリストによって、いつまでも切られることのない愛の絆によって、三位一体の神ご自身と、救われたすべての人々と結ばれるのです。「天国」において神ご自身と完全な交わりに生きる人は、永遠に神に似た者となります。そして、神を「ありのままに」(1ヨハ3,2)、「顔と顔とを合わせて」(一コリ13,12)見るのです。「天上の栄光に包まれた神を観想することは、教会によって「至福直観」と呼ばれています。」(カトリック教会カテキズム1028)この完全な愛の交わりと「至福直観」は、人間の究極目的、その内奥にある願望の実現であり、この上ない至福の状態なのです。天国で生きる人は、真の自分という存在を確保し続けるだけではなく、自分の真の名前、つまり自分の存在の真の意義を見いだして、完全にそれに沿って生きるようになるので、初めて自分らしく生きるのです。

天国の本質は、神との愛の交わりですので、いろいろな愛着や執着によって、神以外のものと強く結ばれたまま死んだ人、つまり神との愛の交わりに生きることのできないまま死んだ人は、死後直接に天国に入ることができないのです。幸いにイエス・キリストが教えてくださった(マタ12,32)通りに、「あの世」でも、つみのゆるし、結果的に残された愛着や執着から解放されて、神との愛の交わりに受け入れられることが可能です。この清めの状態は、煉獄と呼ばれています。確かに、いろいろな愛着から清められることは、苦しいことであるはずですが、苦しくても、煉獄は、罰としてではなく、悪意がなくても、不完全な人間に対する神の大きな思いやり、つまり慈しみ深い愛であると考えるべきなのです。私たちは、生きている人々のために祈ることによって、この人々の回心と神との和解を促すことができるように、亡くなった人のために祈ることによって、彼らの清めの過程を早めること、つまり煉獄の苦しみを減らすことや和らげることができます。「教会は当初から死者の記念を重んじ、死者のために祈り、とくにエウカリスチアのいけにえをささげていました。それは死者が清められて、神の至福直観に至ることができるためです。教会はまた、死者のために施し、免償、償いのわざを勧めています。」(カトリック教会カテキズム1032)

父である神は、すべての人の救いを望んでおられる(1テモ 2,4)し、一人ひとりの救いのために全力を尽くして働いておられます。けれども、神との永遠の交わりは、愛に基づくものですので、神を愛することなく、愛によって神と結ばれていない人は、この交わりに入ることができないのです。そして、愛は必ず本人の自由な選択ですので、神は全能者であっても、誰にもご自分を愛するように強いることができないので。神にできるのは、人のこころの中で、ご自分に対する愛を起こすように努めること、特にご自分の愛を拒否している人に対するご自分の無条件の愛を表すことです。けれども、自由意志を持っている人は、このような力強い神の働きを無駄にし、愛の交わりへの神の招きを無視すること、つまり罪に留まることができるのです。「痛快もせず、神の慈愛を受け入れもせずに、大罪を犯したまま死ぬことは、わたしたち自身の自由な選択によって永遠に神から離れることを意味します。自ら神と至福者たちとの交わりから決定的に離れ去ったこの状態を、「地獄」ということばで表現するのです。」(カトリック教会カテキズム1033)要するに、神は、誰一人も地獄に定めたり、地獄に落としたりされることがありません。「自分の意志で、神から離れる態度(大罪)を持ち続け、死ぬまでその態度を変えない人だけが地獄に落ちるのです。教会はエウカリスチアの典礼と信者の日々の祈りとの中で、「一人も滅びないで皆が悔い改める」(ニペト3,9)ことを望まれる神のあわれみを祈願します。」(カトリック教会カテキズム1037)

カトリック教会は、キリスト者と他の人々に永遠のいのちに導く生き方の模範を示すために、そのような模範的な生活を最後までしてきたと判断された人を列聖します。つまりこの人は、「天国に入って」、神との愛の交わりに生きていると宣言することがあります。けれども、誰かが、「地獄に落ちて」、永遠に神から離れてしまったというような宣言はしません。確かに人間の神との関係は見えなくて、普段私たちに分からないものですが、一人ひとりが神とどのようにかかわったかということが永遠に分からないままに残ることがありません。このことは、最後の審判の時に明らかにされて、皆に知られるのです。最後の審判は、イエス・キリストの再臨のときに行われます。そのとき、私たちは一人ひとりの神との関わりとその結果だけではなく、「創造のすべてのわざと、救いの計画のすべての究極の意味を知ります。そして、摂理が感嘆すべき方法で万物をそれぞれの究極目的に導かれたことを理解します。最後の審判は、神の正義は被造物が犯したあらゆる不正に打ちかつこと、また、その愛は死よりも強いことを明らかにします。」(カトリック教会カテキズム1040)

世の終わりに、神の国は完成しますが、人類にとって、それは創造のときから神が定めておられた人類一致の最終的な実現となります。「キリストに結ばれた人々は、あがなわれた者たちの共同体、神の「聖なる都」(黙21,2)、「小羊の妻である花嫁」(黙21,9)を形づくります。この共同体はもはや、人間の地上における共同体を破壊し傷つける罪、汚れ、自己愛などによって損なわれることはありません。神が選ばれた人々にご自分を無限に示される至福直観は、幸福と平和と交わりの、尽きることのない泉です。」(カトリック教会カテキズム1045)

人間以外のすべての被造物は、人間に密接に結ばれていますので、人間を通して、物質的世界も自己の目的に到達します。聖パウロは、ローマ人への手紙の中で、次のように教えています。「被造物は、神の子たちの現れるのをせつに待ち望んでいます。・・・被造物も、いつか滅びへの隷属から解放される、という希望を持っています。・・・被造物がすべて今日まで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ロマ8,19-23)。

新しい天と新しい地に関する私たちの信仰と同時に永遠のいのちへの希望を教会は、バチカン公会議の中で、次のようにまとめました。「われわれは地と人類の完成の時を知らないし、すべてがどのように変えられるかも知らない。罪によって醜く変形した世界の様相は確かに過ぎ去る。しかし、われわれはこう教えられている。神は新しい住まいと新しい地を用意し、そこには正義が支配し、その幸福は、人間の心にわき上がる平和への願望をすべて満たし、それを超える。そのとき死は打ち負かされ、神の子らはキリストにおいて復活し、弱く朽ちるものとして蒔かれたものは朽ちないものを着る。そして愛とそのわざが残り、神が人間のために造ったすべての被造物は虚無への隷属から解放されるだろう。」(現代世界憲章39)