7.「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

私たちが、神に向かって「私たちを誘惑に遭わせないでください」と願うのは、人間の信仰や愛を試すために、人間に試練を与えるような意味で、人間を誘惑すると思われる神が、そのようなことをやめていただくためだと思う人がいるようです。けれども、非常に大きな勘違いであるこのような考え方は、このように考えている人の神との関係に大きな不信や恐れをもたらすことによって、この関係の発展を不可能にするか、この関係を段々と薄くしてしまうものなのです。誘惑することは、相手を欺くこと、つまり、悪事を行うことなのです。善そのものである神は、いくら良い目的のためといっても、絶対に、悪事を行うことも、それを図ることや、求めることもできないのです。聖ヤコブがはっきり言います。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」(ヤコ1,13)。

 確かに、マタイによる福音書に書かれてあるギリシャ語の文書を文字通りに日本語に直すと、「私たちを誘惑(試み)に導き入れないでください」ということになりますが、このような言い方の意味を表すために、新約聖書のフランシスコ訳がしているように「わたしたちを誘惑に陥らないように導いてください」という日本語に翻訳することもできます。実際に、神は、人間を誘惑なさらないだけではなく、人間が誘惑に陥らないように、常に人間に、正しい生き方や真の善を教えてくださることによって、また何よりも私たちの心に中で、ご自分に対する信仰、信頼と愛を起こすことによって、私たちを誘惑している悪い者から守って、その罠から救ってくださるのです。

私たちは、悪い者に負けないように、自分の弱さを求める上に、常に神の助けを求める必要がありますが、同時に、神がすでに、私たちを悪い者から守るためにイエス・キリストを通して与えてくださった導きに従って生きるように努力する必要があります。すわなち、神を信頼して、信仰と希望に生きる(マタ7,7-11)ように、善を行いながら(マタ7,12)、狭い門を通るように、つまり、社会の流行に合わせたり、楽しいことや楽なことを追求したりするのではなく、神の望みに従って、愛を自分の選択基準にするように(マタ7,13-14)、また、偽預言者に気を付けながら(マタ7,15-20)、イエス・キリストとの友情という強い土台に基づいて生き(マタ7,21.24-29)、与えられた使命を果たす(マタ26,41)ように努める必要があるということなのです。

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