「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。」ヨハ 19:28-29
イエスは、もうすでに六時間十字架に掛かっています。呼吸することは、益々難しくなってきて、死が近づいています。けれどもイエスは、もうすべてを語ったわけではありません。亡くなる前に、特に伝えたいことがあります。それは、自分の渇きのことです。死を前にしてイエスが何に渇いて、何を求めていたのでしょうか。
確かに、そんなに酷い尋問を受けた後にのどが渇いていたはずです。けれども、痛み止めになっていた飲み物を拒んだこの人、今までの苦しみをそんなに忍耐強く耐え忍んだこの人は、今のどの渇きを癒すために飲み物を要求したのでしょうか。受難の激しさを覚悟した上で、この苦しみを自由な意志によって受けたこの人は、すべてが終わろうとしている今、この苦しみを和らげるように願うのでしょうか。
もう何回も十字架の死刑を執行した兵士たちは、きっとイエスと同じ刑罰を受けた他の人との違いがはっきりと見えたはずです。聖ペトロが書き記した通りにイエスは「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」(1ペト 2:22)おそらく、そのために一人の兵士は、哀れに感じたでしょう。そして、自分の渇きを癒すために持ってきた飲み物をこの無罪の人と分けて、イエスの苦しみを少しでも和らげようとしています。兵士のこの哀れみ深い行動は、イエスののどの渇きを癒すよりも、人の愛に飢え渇いたイエスの望みを満たします。人間の愛こそがイエスが何よりも求めておられることです。この愛だけがイエスの渇き、と同時に父である神ご自身の渇きを癒すことができるのです。