II 神のいつくしみ

神のいつくしみへの礼拝において最も重要なのは、神に対する人間の信頼なのです。従って、シスター・ファウスティナの使命の一つの目的は、人々の心の中に神への信頼を起こすことでした。この使命を果たすために、イエズスはシスターに神のいつくしみについて教え、このいつくしみの体験をさせてくださいました。イエズスから与えられた教えと体験を伝えるシスター・ファウスティナの日記は、神のいつくしみの賛歌となり、神のいつくしみについての聖書の教えを思い出させ、理解を深め、神に対するわたしたちの信頼を起こす原動力となっているのです。

1. いつくしみは、愛のわざ

「神は、その独り子をお与えになったほどに、
世を 愛された。独り子を信じる者が一人も
滅びないで、 永遠の命を得るためである。」
ヨハ3・16

 福者ファウスティナの日記に書きしるされている神のいつくしみについての教えでは、いつくしみは神の最大の属性となっています。シスター・ファウスティナは、多くの箇所で、いつくしみを神の愛、神の善、または神の憐れみと同一視しています。その意味を説明する時、いつくしみは愛の実り、また別の箇所では、いつくしみは愛の花であると書いています。「神は愛です。いつくしみは神のわざです。愛から生じるものは、いつくしみによって表されています」(651)。存在しているすべてのものは、神の「いつくしみの深み」から出ました。神のすべてのわざは、その限りないいつくしみの現れなのです。神のいつくしみは世界を満たし、この世界の存在を保っています。それは、創造主と被造物との間にある底のないふちを埋めるものであり、人間に神の命、またはその神聖な幸福にあずかる可能性を与えるものなのです。
神のいつくしみの最高のわざとは、み言葉の受肉(イエズスの誕生)とその救いのみわざ、つまり御ひとり子の受難と十字架の死です。イエズスがこの世に来られたのは、神のいつくしみ深い愛を示すことによって、人間を神へと引き寄せるためでした。しかし、神の愛の最も完全な表現であった御子の死さえも、多くの人々にとっては、神の愛を信じそのいつくしみに信頼をおくには、まだ不十分であるということが、キリストの大きな悲しみの原因となっています。実は、神を信頼しないことこそ、イエズスのいつくしみ深い御心を最も強く傷つける罪なのです。

2. いつくしみの泉

「渇いている者は来るがよい。
命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」
黙示22・17

 キリストの十字架の死は、福者ファウスティナの神のいつくしみについての教えの中心にあります。十字架上で死に瀕していたイエズスの御心が槍によって開かれました。その時に流れ出た血と水は、いつくしみの泉となりました。人の罪の大きさを問わずに、誰でもこの泉からいつくしみを汲むことが出来ます。「わたしのいつくしみについて世界に話しなさい。全人類は、わたしの限りないいつくしみを見きわめるように。それは、終末の時のためのしるしである。その後正義の日がやって来る。まだ時間がある内に、わたしのいつくしみの泉に近づき、彼らのために流れ出た血と水を利用するように彼らに言いなさい」 (848)。実は、イエズスが求めているのは、人々が出来るだけたくさんこの泉から恵みを汲むことなのです。なぜなら、イエズスにとっては、少し与えるよりも、たくさん与える方が易しいからです。いつくしみの泉から恵みを汲む人は、神を礼拝します。神は、ご自分を「燃やす」いつくしみの炎をすべての人々に注ぎたいと望まれるので、神のいつくしみを受ける人は、神の最も強い望みに答えることになります。
いつくしみの泉がいつか渇いてしまい、神のいつくしみが足りなくなってしまうのではないかと心配する必要はありません。神のいつくしみは汲み尽くせないほど深いだけではなく、受け入れられることによって増えるのです。イエズスがシスターに教えられたように、人の罪が大きければ大きいほど、その人は神のいつくしみを受ける権利が大きいです (723)。「わたしの秘書よ、わたしは、正しい人のためよりも、罪人のために気前がよいと書きなさい。彼らのために地上に降り、・・・・・・彼らのために血を流した。彼らが、わたしに近づくのを恐れないように。彼らこそ誰よりも、わたしのいつくしみを必要としている」(1275)。イエズスは、一人ひとりの必要に応じて十分にいつくしみを与えてくださいます。
人間の罪は、神の怒りではなく、その憐れみを引き起こすので、誰も神に近づくのを恐れる必要はありません。いつくしみの泉から恵みを汲むためには、ただ一つの器、つまり神への信頼が必要です。「人が、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」 (1576)。いつくしみ深い神は、自分自身を人間の信頼にゆだねました。そのために、イエズスはこう言われます。「最も大きな罪を犯した人であっても、わたしの憐れみを願うならば、わたしは、彼に罰を与えることが出来ない。その代わりに、わたしの限りない、はかり知れないいつくしみによって彼を義とする」 (1146)。「わたしは、苦しんでいる人類に罰を与えたくない。わたしのいつくしみ深い心に人類を引き寄せることによって人々をいやしたい。人々が、わたしに罰を与えるように強いる時だけわたしはそうする。わたしの手は、正義の剣を取ることを好まない。正義の日の前に、わたしはいつくしみの日を送っている」 (1588)。

3. いつくしみと正義

「わたしの言葉を聞いて、
わたしをお遣わしになった方を信じる者は、
永遠の命を得、また、裁かれることなく、
死から命へと移っている。」ヨハ5・24

神のいつくしみについての教えの中では、いつくしみと神の正義との関係の説明がとても重要です。イエズスがファウスティナに与えられた教えによると、いつくしみは十字架上で正義に対して勝利をおさめました。十字架の死に至るまでのイエズスの従順は、「正義の剣を遠ざけて、いつくしみの期間を延ばしまし た」。そのために、現在はいつくしみの時なのです。この世に生きている間に誰にでも回心のチャンスが与えられています。神は絶えず人間の回心を待っています。実はそれだけではなく、神はあらゆる罪の中に生きている人間を、ご自分のいつくしみをもって追いかけています。いつくしみ深い神は忍耐強い方なので、すぐに罰を与えることはありません。罰のためには永遠があります。正義の日がやってくる前に、神はまずいつくしみの日を送り、いつくしみの王を遣わします。しかし、もしいつくしみの王であるイエズスを受け入れないならば、その人は正しい審判者であるイエズスの前に立つことになります。イエズスは、こう言われます。「正しい審判者として来る前に、まずわたしのいつくしみの戸口を広く開ける。この戸口を通って入りたくない人は、正義の戸口を通って入らなければならない」(1146)。しかし、この場合、どのような罪であれ罰なしに見逃がされることはありません。「誰一人も、わたしの手から逃げることが出来ないと罪人に言いなさい。彼らが、わたしのいつくしみ深い御心から逃げているならば、必ずわたしの正義の手に陥る。わたしはいつも彼らを待ち、彼らの心がわたしに向かって鼓動しているかを聴いていると罪人に言いなさい。書きなさい。わたしは、良心のかしゃく、失敗と苦しみ、または嵐と雷、教会の声を通して彼らに語っている。わたしのすべての恵みを無駄にしてしまうならば、わたしは、彼らに怒りを感じ始め、縁を切り、望みのままにする」(1728)。
神は、誰一人も滅ぼすことがありません。しかし、神は人間の自由、人間の選択を尊重するので、それを求めて選ぶ人が滅びるのです。

III 神のいつくしみへの礼拝