四旬節第4主日B年 (ヨハ3,14-21)

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」ヨハ3,19

もし、あなたが心から求めているものを見つけた時に、余計な荷物を手にしていたならば、どうしますか。恐らく、殆どの人は、自分の手を自由にするためにこの重荷を下して、空いた手で見つけたものを手に入れると答えるのではないでしょうか。これは、常識だと思いますが、実際に私たちはそのような常識に従わないことが少なくないようです。

私たちが持っているものに執着し、また、物質的な物だけではなく、物事に対する自分の理解や自分の生き方に慣れすぎると、それ無しに生きることはあり得ない、少なくとも、それなしに生きることは難しいという確信を持つようになり、それを失うのを恐れるようになります。そのために、このような執着や慣れが、常識に従うことができない一つの理由になるのです。

けれども、 “四旬節第4主日B年 (ヨハ3,14-21)” の続きを読む

四旬節第3主日B年 (ヨハ2,13-25)

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」ヨハ2,15-16

神は、いつも私たちと共におられるし、ご自分の愛を表してくださり、私たちの心の中でご自分に対する愛を起こそうとしておられます。神がこのようにされるのは、私たちを愛によって、愛に生きるために創造してくださり、私たち一人ひとりが愛をもって神の愛に応えることを常に望んでおられるからです。この望みを実現すために神は、イスラエルにご自分との交わる場として神殿を建てるように命じたのです。

イエスは、神殿から商人を追い出すことによって、そこで行われていた儀式がもはや神の心に適うものではなくなっていて、本来の役割を果たしていないことを示そうとしました。当時はこのしるしを誰も読み取ることができませんでしたが、神殿が神との出会いの場になっていて、命と祝福を受け入れるところであるように見えても、実際にそうではなかったという事実は、凡そ40年後、神殿が破壊されることによって明らかにされたのです。

エルサレムの神殿は壊されましたが、それを建て直す必要はありません。なぜなら、 “四旬節第3主日B年 (ヨハ2,13-25)” の続きを読む

四旬節第2主日B年 (マコ9,2-10) 

「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」マコ 9,7

非常に多くの人々は、とても単純な規則に従って生きているようです。それは何かというと、楽しみや愉快をできる限り増やすことと、悲しみや苦痛をできる限り減らすことなのです。恐らくそのような生き方によって、できる限りの幸せな人生を送れるものと思っているのでしょう。けれども、実際に楽しいものであっても、人に害を与えるものもあれば、苦しみが伴っても、人間のために良いものがあります。幸福を求めてこのような規則に従って生きる人は、害を招いたり、善を拒否したりして、結果的に不幸になっても不思議ではないと思います。

イエスは全く違う規則、決断や選択の違う基準を私たちに与えてくださいます。この基準というのは、楽しみや愉快でもなければ、悲しみや苦痛でもありません。それは愛、つまり隣人のために善を求めることなのです。

確かに人が、この規則に従って愛に生きるなら、大きな喜びを体験することもあれば、大きな悲しみや苦しみを体験することもあります。けれども、この人はどんな目にあっても、愛し続けることができるならば、出会ったすべての人のためにいつも善を行い、必ず人間として成長しますし、そして、何よりも重要なこととして、人間の真の幸福の源である神に近づき、神との絆をますます強めるのです。これこそ、この人にとっても、この人が会う他者にとっても、最善の生き方になるのです。

聖なる父よ、
あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。
みことばによってわたしたちを養ってください。
信仰の目が清められて
あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。