四旬節第3主日B年 (ヨハ2,13-25)

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」ヨハ2,15-16

神は、いつも私たちと共におられるし、ご自分の愛を表してくださり、私たちの心の中でご自分に対する愛を起こそうとしておられます。神がこのようにされるのは、私たちを愛によって、愛に生きるために創造してくださり、私たち一人ひとりが愛をもって神の愛に応えることを常に望んでおられるからです。この望みを実現すために神は、イスラエルにご自分との交わる場として神殿を建てるように命じたのです。

イエスは、神殿から商人を追い出すことによって、そこで行われていた儀式がもはや神の心に適うものではなくなっていて、本来の役割を果たしていないことを示そうとしました。当時はこのしるしを誰も読み取ることができませんでしたが、神殿が神との出会いの場になっていて、命と祝福を受け入れるところであるように見えても、実際にそうではなかったという事実は、凡そ40年後、神殿が破壊されることによって明らかにされたのです。

エルサレムの神殿は壊されましたが、それを建て直す必要はありません。なぜなら、復活されたイエスが、前の神殿よりも優れた、新しい神殿、しかも、人間がどこにいても神と交わることのできる生きた神殿であるからです。

イエスは新しい神殿の役割を、ご自分の神秘的な体である教会によって果たしています。洗礼を受けることによって私たちは、この神秘的な体の部分、つまり細胞になり、イエスの使命にあずかるようになっています。しかし、キリストの体は滅ぼされることがないと保証されていますが、その一つ一つの細胞については同じことが言えないのです。ですから、自分がどんな細胞であるかということについて、常に見つめる必要があると思います。

自分自身は、生き生きとして、体の働きを支える細胞になっているのでしょうか。それとも、死んでいるか、癌細胞のように自分を生かすためにこの体を利用しようとして、それを弱めているのでしょうか。キリストの体の一致を固め、その傷の治癒になっていますか。それとも、一致を壊し、新しい傷を負わせているのでしょうか。

信じる者の力である神よ、
あなたは、祈り、節制、愛の業によって、
わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。
弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、
いつもあわれみをもって助け起こしてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。