年間第20主日B年 (ヨハ6,51-58)

「イエスは言われた。『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。』」ヨハ6,54

ご聖体を拝領すること、すなわち、キリストの体を受けることは、生きたイエス・キリストと交わることなのです。ご聖体においてキリストがご自分自身を私たちに与えてくださるのは、私たちを愛しておられる上に、私たちと共にいたいだけではなく、私たち一人ひとりと一体になりたいからです。要するに、ご自分の体を与えることによって、イエスが私たちに対する真の愛を告白してくださるわけです。

もし、私たちがキリストの愛に応えてキリストを愛し、キリストを受け入れたい、キリストに自分自身をささげたい、最終的にキリストと一体になりたいと求めるようになるならば、自分の望みを忠実に表すものとして、聖体拝領は本当に愛の告白になります。そのときだけ、この交わりはキリストの意向通りに、キリストとご聖体を拝領する人との絆を固め、確実に完全な一致を実現するものになるのです。

けれども、もし、私たちがこれらと異なる理由や目的のためにご聖体を拝領するならば、行動で表すものと、実際に心の中で求めているものが違うので、それが本当の愛の交わりにならないだけではなく、嘘をつくことにもなります。それは、全然愛していない人を、自分の楽しみや他の利益のために利用しようと思って、この人を騙して、「愛しているよ」と言うことと同じです。

この嘘が、故意のものではなく、無知のためのものでしたら、聖体拝領は自分の人生に何の影響も及ぼさない単なる儀式になりますが、故意の嘘でしたら、それはご聖体を拝領する人の心をますます閉じさせ、キリストとの絆を傷つけるか、それを完全に破るもの、また、他の害を与えるようなものにさえなるのです。

いつくしみ深い父よ、
あなたを深く愛する心をお与えください。
すべてにおいてあなたを愛し、
人の思いをはるかに越えたしあわせに
あずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第19主日B年 (ヨハ6,41-51)

 「イエスは言われた。『わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。』」ヨハ6,51

もし、イエスがナザレの人々の考えたように、ただのヨセフの息子であったならば、イエスの言葉を、全く現実から離れた人が語ったものや人々を惑わせようとした人の話として、それを無視してしまった方がいいと思います。けれども、イエスは自分自身が語ったように、ヨセフの子ではなく、宇宙万物を創ってくださった神の子であって、この神である父によって遣わされた方であるならば、イエスが語られた言葉は非現実的なものではなく、今まで私たちの現実になかったような新しい可能性を現すものとして聞くべきであると思います。

この新しい可能性というのは、永遠の命なのです。しかし、この永遠の命というのは、ただいつまでも今のまま生きるということではなく、イエスと同じように神の子どもとして、神と共に愛の交わりの内に生きるということなのです。

この可能性を実現させるために、イエスが私たちをご自分の体と血によって、要するに、ご自分の命によって養ってくださいます。普段、人は何かを食べるなら、そのものが自分の体の一部になりますが、イエスが下さる命のパンを食べる人は、そのパン、つまりイエスの体の一部になっていきます。そのため私たちは、イエスを信じて正しい心を持ってご聖体を受け入れるならば、私たち自身が少しずつ変えられ、イエスを通して父である神と結ばれ、父である神とのますます深い交わりに生きるようになり、最終的にイエスと同じように、父である神ご自身と一体になるのです。

全能永遠の神よ、
わたしたちは、
聖霊によってあなたの子どもとしていただきました。
あなたを父と呼ぶわたしたちを、
約束された永遠のいのちに導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第18主日B年 (ヨハ6,24-35)

「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」ヨハ6,35

人間のあらゆる必要性が満たされているとき、人間は安定して幸福感を味わっています。けれども、必要性の中には簡単に満たされるようなものだけではなく、満たすためには一生懸命に働かなければならないようなものもあれば、いくら努力しても、自分だけでは満たすことのできないものもあります。

自分の必要性を簡単に満たすことができない人間は、安定感や幸福感を得るためにいろいろな工夫をします。その内、最も一般的と考えられている仕方とは、次のようなものです。簡単に満たせるような必要性を、機会がある度に必ず満たし、なかなか満たすことのできないような必要性は、意識しないように抑えるか、本当に必要なものがもたらすような感覚を与えるものとして代用品を用いて、必要性が満たされているかのように感じる状態にします。それは、たとえば空腹のときに、本当に必要な食事をする代わりに、一杯の水を飲むか、何の栄養もないものを食べることによって、空腹感をなくすことで、空腹感が表した必要性が満たされたかのように感じる状態にするようなものです。言うまでもなく、それによって安定感を得ても、それは本当の安定ではありません。幸福感を得ても、それは本当の幸福ではありません。そうする人は、自分を欺くだけではなく、インスタント食品ばかり食べている人のように自分に害を与えもします。そのことがすぐに分からなくても、何時か必ず分かるものなのです。

主イエスには、私たちのすべての必要性を満たす力があるし、この必要性を必ず満たしてくださると約束してくださいました。私たちは、イエスの力とイエスの忠実さを信頼して、自分で満たすことのできない心と魂の飢え渇きを隠すのではなく、それを主に委ね、イエスの導きに従うことによって、すべての必要性を満たしていただくように祈りたいと思います。

すべてを治められる神よ、
あなたに祈り求める民を顧み、
尽きることのないいつくしみを注いでください。
あなたの似姿に造られた人々が救いの恵みを受け、
新しいいのちのうちに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。